ドキュメンタリーは「顔」だ、ということ。
原一男監督の
『水俣曼荼羅』
を観た。
(http://docudocu.jp/minamata/)
フォーラム福島で一日限り、一回限りの上映である。6h18m、三部構成の大作。
いわきからいけば往復にさらに5h一日がかりだ。
チケットは一月前に買ってはあったものの、前日までだいぶ迷っていた。ドキュメンタリー映画の中には睡眠導入効果が高いものがある。貴重な映像ではあっても、こちらの精神の持続に耐えない編集、というのはあるものだ。まして、エンタメに首から下はどっぷりと漬かって人生を生きてきたのだから。
しかし、まあ驚いたことに、6時間を超える上映中一睡もしなかった(笑)
私たちがみたいと思うものを見せてくれるのがエンターテイメントの映画だとすると、『水俣曼荼羅』は基本その対極にある。目的はエンタメではない。
上映後の監督の言葉を借りれば、庶民が権力にどう向き合うか、がドキュメンタリーの精神だ(と師匠の浦山桐郎にいわれた、って話ですが)。
しかし、この映画は私たちに断片だけを放り投げるものでもなければ抵抗のストーリーを与えてくるものでもなかった。
興味深い出来事、事件の中で生きる人間のなんとも言えない表情を、数分に一度はつきつけてくる。
いや、突きつける、という言葉は不正確だ。さりげなく(いや時にはあざとくカメラを回すということもしているんだろうが、狙っているのはストーリーに即しただけの人の身振りではない。
ふと、状況と向き合ったときに見せてしまう人間の表情、そういうものに満ち溢れた繊細な映画なのだ。
そしてありがちなドキュメンタリー映画のようなへたくそな映像はどこにもない。
映像が美しいといえばそれも語弊があろうか。
とにかく、飽きさせないのだ。
映画として、切り取る表情として、事件の深刻さとして、人間の魅力として、それが数分に一度は画面に浮上してくる。
環境省のお役所の方々の硬い表情、そこからメモをひったくる(笑)水俣の支援者の女性の気迫、生駒さんの含羞を含んだ笑顔、困惑する姿、坂本さんのめまぐるしく変わる表情、、二宮さんの涙、緒方さんの自分を抑えながら噛みしめるように言葉を発する姿、弁護士それぞれの個性が見える話しぶり、熊本県知事の能面のような顔、数え上げたらきりがないほど、水俣病をめぐる様々なレイヤー(層)で起こっている事件とその事件の時間を生きる人たちが出会い、すれ違い、交差しながら進行していく……曼荼羅というネーミングが不可避な所以である。
名前だけは聞き知っていた川上さん、高倉さん、緒方さん、石牟礼さん、などレジェンドの姿を見ることができたのも(ミーハーですいません)うれしかった。
最後に。『水俣曼荼羅』の上映会をしている中で「甘夏事件」という言葉が出てきた。
映画にも出てきている高倉さんの娘さんのノートである。
(https://note.com/tsuzumiko/n/nd15d7fcc8d74)
これはひとつの「事件」に過ぎない(すぎないったって、当事者にはメチャメチャ大変なことだったわけどけれど)けれど、おそらく、この『水俣曼荼羅』の陰には、無数のそーゆー「事件」もあるはずで、海に立つ小さな波頭の一人一人の表情を丁寧に追いかける原監督の映画が、どんどんいろんなところに観客である私を連れて行ってくれる。
ドキュメンタリーは「顔」だ、というひとつの実感を手にした。
大きな話ではないが、私にとっては大切なことなので、忘れないうちに書いておく。