ケアとは何か-看護・福祉で大事なこと (中公新書, 2646) https://www.amazon.co.jp/dp/4121026462/ref=cm_sw_r_cp_apan_glt_i_5KRN0DCYK0Q2ZGVJBMNC
を読んだ。昨日著者と餃子屋さんでたまたま少しだけお話をする機会があった。私にとって最も重要な本のうちの一冊である『自閉症の現象学』の著者と会えるというのはメチャメチャ嬉しいことだったが、村上さんは、『自閉症の現象学』の方法というか書き方を批判的に乗り越えようということで、ここ十年ほどは看護師さんなど臨床の現場で聞き取り中心に仕事をしておられる、ということだった。
そういえば私の大好きな医学書院の
シリーズ・ケアをひらくの中の一冊、
『摘便とお花見』
摘便とお花見: 看護の語りの現象学 (シリーズ ケアをひらく) https://www.amazon.co.jp/dp/4260018612/ref=cm_sw_r_cp_apan_glt_i_1HGCNSPQV1FSV8N9DWAD
も村上さんの著作だったのをころっと忘れていた(読んでたのに)。
そこで思い出してしまったのが、ふじみ野市での在宅ケアの医師が猟銃で撃たれる、というあの事件のことだ。
バルネラビリティ(vulnerability)という用語があるらしい。
ネットで調べたらプログラムなどでの(ハッキングされやすい)脆弱性、と出てきた。
ここでの意味はもちろんそういうことではない。
弱さ傷つきやすさとかのことだそうだ。
フラジリティfragility(傷つきやすさ)とは違うのかな?
ともあれ、弱さを支え、肯定するためには、ケアする側が対象となる者に寄り添い、弱さを共有することが重要になってくるわけだけれど、今回のふじみ野の不幸な事件においては、老母の介護をしている老息子に、その介護を支援していた医師が殺害されるという痛ましい結果となった。
無防備で寄り添えば、最悪命を奪われることがある。この事例はもちろん極めて例外的なことだが、そこまではいかなくても、ある種の「危険な領域」に踏み込まねばならない瞬間は間違いなくあるに違いない。
この本では直接的にこのような困難は、主題的には語られていないが、村上さん自身のコトバでいえば、
「こういう研究は人を傷つける加害性を持っているのでなないか?」そういう意識を強く抱いています」
と言っておられた。直接的には『自閉症の現象学』についての極めて厳しいと思われる自評のコトバだったが、ケアの現場に立っている人々も、それを研究している人たちも、弱さを共有するということの持つ、深くて傷つきやすくて難しいなにかに直面しつつその営みを続けているのだろうな、と改めてつよく感じた。
介護の仕事をしていた若者が、ケアをしていた相手を次々に殺してしまうという辛い事件もあった。
ケアの現場にある「弱さを肯定し、支える営み介護については、ぐるぐるしながらなお考えていかねばならないと思う。