龍の尾亭<survivalではなくlive>版

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2013年型の新Nexus7レビュー(3)

2013年09月01日 20時57分50秒 | ガジェット


こちらのレビューでも、iOS系の方がタッチパネルの挙動が自然。Nexus7は少し遅れる印象という指摘が。
使えないほどではないが、iOSほど信用も出来ない。
高速の入力時、Nexusのほうが追随性が悪い感じがあったので、この記述には納得。
とくみつ録
http://blogs.dion.ne.jp/109nissi/archives/11292220.html



もうひとつ、早めのレビュー。
最新タブレット速攻レビュー
http://www.itmedia.co.jp/pcuser/articles/1308/30/news107.html


2013年型の新Nexus7レビュー(2)

2013年09月01日 17時43分07秒 | ガジェット
電池の保ちのことについて。

Nexus7は、iPhoneのテザリングでネット接続している。
そのiPhoneの電池の方が一日持たない。
夕方にはギリギリになる。

だから、外で使い倒すタメには充電用の電池の携帯が必須になる。
使いやすいからこその悩み、なのだが。

勿論大抵のことはPhoneで出来る。
だが、7インチの画面がつかえるとなれば、Nexus7の方で一元的に集約してやりたくなる。

ワープロとか表計算、データベースといった仕事は別として、もうこの7
インチ画面タブレット二、パーソナルな処理は全部任せられる。

そう思う。

後は電池。そこが興味の中心かな。





2013年型の新Nexus7とりあえずのレビュー

2013年09月01日 17時03分20秒 | ガジェット

2013年型の新しいNexus732ギガを購入。

週末2日使っただけだが、簡単に使い勝手をメモていどに。

0、初めに

普段はiPhoneでMAILとFacebook、時にツイッターをチェック。
iPadは持ち歩いて自炊本のpdfを読むか、自宅のLAN接続でTVを視聴。
音楽は室内では旧型のiPhone4をiPad代わりにスピーカーに接続。
車にはiPodを載せている。

Nexus7が来る前はそんな使用状況だった。

発売したばはつばいしたばかりの7が地元の量販店にあると知ったのが週末金曜日の夜8時半。電話しちゃいました。すると幸か不幸か16Gも32Gも在庫があるとのこと。

もうすぐ発売になるiPadminiと比較してから購入するのが大人の買い方、なのは知っている。
だが、物欲は抑えがたく、車を飛ばしてY 家電店へ。 
行ってみると、展示は極めて地味。iPadとiPadminiの裏側に、Y電機野タブレットとかレグザとかに埋もれて一台ひっそりと置いてありました
速攻でカードにて購入。来月の支払いが心配だが、仕方がない(笑)

1、軽さは正義だ

自宅に帰ってパッケージをあけるのももどかしく手にとってみると、第一印象は
 「軽い!」

300gを切る重さはそれだけでタブレットにとっては正義だ。
特に10inchのiPadを外出時に一年ほど持ち歩いていた身としては、この軽さだけで感激ものだった。

2、細さは持ちやすさ

外見で特徴的だったのは、幅の細さである。iPadminiは、横幅がある。 あまり大きくない私の手では背中をグワシっと掴むのは難しそうだ。
だが、あたらしいNexus7は、極めて持ちやすい。
画面上を掴まなくても両端に手をかけて背中を持ち、もう一方の手で無理なく入力できる。
表示できるデータ量との兼ね合いだが、私の場合、外に持ち歩けなければ意味がない。これも納得の大きさだった。

3、画面は高精細なのだろうが……

iPadとiPhoneを見慣れていると、特にこれが超高精細なのだろうが、だとは思わない。まあ、同じようなもの、といったところか。
もはや表示は来るところまできた、と考えて良いのかもしれない。
iPadminiの時点ですでにそんなに不満はなかった。

4、アクティベートとLAN接続もスムーズ

Google本家の純正仕様ということもあってか、シンプルでよい。
最初に日本語を選ぶのを慌てなければ大丈夫だろう。

余計なソフトもプリインストールされておらず、GoogleのMAILアドレスさえとってあれば簡単だ。
LAN接続も、二つのルーターともに一発で登録ができ、スムーズだった。

5、ソフトウェアのインストールも迷わず

なにせAndroid端末を初めて購入したので、どんなソフトがいいのか分からない。

とりあえず

バッテリー表示→バッテリーゲージ
バッテリー節約→ibattery
ファイル操作ソフト→ESファイルエクスプローラ
アンチウィルス→AVG antivirus free for Android free 版
メモリ開放ソフト→Advanced Task Killer free版
メニューそふと→SwipePad free版

をインストール。
Google関係は既に全て入っているし、 
全てGoogleplayというところからのdownloadでオッケーである。

アップルのアプリより面倒なのかと思ったらそうでもなかった。

6、違和感があるとすれば画面の感度か。

唯一戸惑ったことがあるとすれば、入力時の感覚の違いだろう。
iPadとiPhoneのフリック入力に慣れていると、この新Nexus7の画面はそれに比べて
「強く押す」
感じが必要だと感じる。いや、悪いというよりは、どの程度の感じで感応するのか、の微妙な差なのかもしれない。
2日終えた時点では、大分慣れてきた。
ただ間違いなくタッチ画面の感触に違いはある。
こういうところは微妙なだけに、ジックリ使ってみなければ分からない。
三日目の段階では、iPadとiPhoneの方が自分にとってはストレスがない、とだけ書いておこう。

7、心配不要だったPDF閲覧ソフト。

わたしにとって最大の関心事は、常に持ち歩いて自分で裁断&スキャンしたPDFファイルをはじめとする快適に読めるかどうか、だった。

結論からいえば、十分オーケー。
ここがクリア出来たので、この時点での購入は正解だったと結論つけられる。

使える、と感じた閲覧ソフトは二つ。

Perfect ViewerとPerfect Viewer PDF Plugin
それに
SideBooks
前者はAndroid端末で漫画を読むのに最適化とか。後者はiOSでも定番のソフト。
どちらもなかなかいい。

Perfect Viewerは周囲の余白を無視してテキストが書いてあるところをギリギリまで大きく画面表示し、そのまま継続してホンを読むことができる。これはiOSのビュワーでもお目にかからなかった機能。
これは大きな単行本を7
インチ画面で読むときには極めて重宝。
場合によっては10
インチのiPadと同等の見やすさをもたらしてくれる。

SideBooksは、OCR索引がついたPDFだと検索が可能。
これは論文とかを読むとき必須。
iOSからの移植がなされたばかりとか。

私のために(笑)ありがとう!である。


8、電池の保ちはかなりのモノ。

電池は使い方次第だろうが、一日中電源を入れてFacebookを閲覧し、書き込みを繰り返してブログ更新も行い、Webブラウジングをしても
8時から17時でまだ40%残がある。一日中外で使い倒しても対応できそうだ。
機内モードでの読書ならもっと余裕かもしれない。
後は半年後の能力低下はどうか、ということになるが、それは半年経たないと分からないのでまた後日。充電もスムーズであった。

9、結論

お値段が32ギガバイトで33,000円というのは、おそらくiPadminiよりは大分こなれた値段になるだろう。
それを仮定しての話だが、新型Nexus7は買い、だ。

一つだけ、画面の感度は現物をゆっくりいじって確認されたい。

ただし、画面の動作に初期不良があったとの噂も聞くが、私の場合そんなことはなかった。

果たしてこれから新型iPadminiが出たら後悔するだろうか?
それは出てみないと分からないが、取りあえずいまのところは、負け惜しみを言わずに満足できる、と断言しておこう。
物欲にとらわれてそっちも購入。してしまうかどうか、はまた別の話だ(笑)



魂について(3)翻訳と習得ということ

2013年09月01日 15時13分15秒 | 大震災の中で
今日の「流行り」は
『語りえないものを語る』野矢茂樹
なので、それを読みながら魂について考えている(ことになってしまった)。

次の視点は
「翻訳と習得」
子供は言語を習得し、大人は言語を翻訳する。
翻訳の不可能性とかを言い立てる大人を尻目に、子どもはドンドン言語を「生きていく」だろう。

魂は前者ではなく、後者の側に親しい、ととりあえずいっておきたい。

魂とか神様は経験によっては直ちにたどり着くことが難しそうに(おとなには)見える。
そういう意味では不可視のモノあるいはこと、であって、経験超越的、でもある。
必ずしも抽象的、ではないが、虚構的、と大人ならば言うのかな?

だがそれは、
「おとな/子ども」
という区分だけでは括れない。

つまり、その理解とは「世界を生きること」に関わっているのだ。


魂について(2)眺望と相貌、の違い

2013年09月01日 14時30分35秒 | 大震災の中で

魂と神様の話しをするために、ちょっとだけ寄り道をしたい。

相貌と眺望の違いについて(『語りえぬものを語る』野矢茂樹P129~P130あたりを参照しつつ考えています)。
だ。

眺望は風景の見え具合だから、共通の対象を(見え方はどうあれ)見ていることになる。その上で語られる言葉は、はずれていたり共有できたりはするものの、見える範囲では検証が可能だ。
だが、ここでいう相貌、は違う。


相貌というのは、中からそう見えてくる感じ、直観的にそう分かる感じを前提とする。

「前提とする」という辺りがすでにして怪しいのだが(笑)、これはけっして、
「こういう見方に則って見るからそう見える」
という種類のことではない。
見方が前提されていたり、予め説明されているとそう見える、といった「説明」なり「説得」があってそうみえるわけではない。

まあ、どこかの宗教団体が布教のためにそういう「方法」をあみ出すことはあり得るかもしれないけれど、そういう話はしていない。

言い換えればそれは、

公理系ではなく、観点だ、ということ。

「立場αにおいて命題Aは真である」
は、
「ユークリッド幾何学においては三平方の定理は真である」
とは違う。
前者はある種のの公理系の選択だが、
後者は何かが前提されているというより、
それ自体が立場、立ち現れ、相貌、として立ち現れることを示している。
正しいか間違っているかを判断できる命題としては語られていないといってもいい。

だが、こういうことは命題としての意味がどうのこうのではなく、表現されてしまうし、そういう真偽判定のためではなく、表明されることを抜きに人間の表象(表現、といってもいいが)における営みを考えることはできないだろう。

これは真理相対主義みたいなことではない。

魂とか、神様とかは、
語られ方でいえばそういう「公理」ではなく「観点」、
対象としていえば目に見えて対象を同定できる「眺望」ではなく、内側から立ち上がる「相貌」
として直観するようなものだろう、ということだ。

まず準備段階の一つとして。


魂について(1)説明と説得とは違う、ということ。

2013年09月01日 12時52分09秒 | 大震災の中で
魂でも神様でも、いわゆる
「本当は」
ない、いない、ということになっているモノについて話をし始めるというのは、ちょっと常識に言いがかりをつけるところから始めることになる。

私も死んだ瞬間に魂が口からフワフワと出てくるとか思ったことはないし、雲の上にあたかも人間のような人格を持った神様がいるとか思ったこともない。

従って、そういう意味での魂や神様はいないという主張に同意する。

だが、では魂やら神様がいなくていいのか、いないと主張したいのか、というと、決してそうは思わない。

むしろ神様や魂はそこにいる。そう思える。

神様や魂が存在しない、とか声高にいう人の気が知れない。
あれだけ、おそらく千年以上人間たちが何らかの形でその存在を認めてきた神様や魂を、欠如させた思考は、おそらく十分に機能していないのではないか。 

そう思えてならないのだ。

じゃあ魂はあるのかないのか?
神様はいるのかいないのか?

その質問者を口にしてしまう人が納得するような、そして安心してしまうような答えは、私は絶対に口にするまい、と思う。

神様はいるに決まっている。
魂はあるに決まっている。

ただし、その言葉に見合った実質や本質がその言葉によって名指されるとはカギらない。つまり、言葉が直ちになにかの実質や本質を指し示すと思うなよな、ということだ。

でも、それでもなお、その言葉が発せられるだけの実質はそこにある。

それを説明したいのだ。

魂についての課題。

2013年09月01日 12時09分58秒 | 大震災の中で
Facebookで、人生の師匠からこんな宿題を出された。

師匠:

宿題
「魂とは、この世の中で、生命という「組合せ」によって自己展開し、なお生き続けようとする働き」、この部分、つまり「魂」とは何か小学生でもわかるよう簡単に説明せよ。

スピノザを読んでなるほど!と思ったことを、自分の中で起こっている出来事として捕まえてみるとどうなるか、って話なんですけどね。どうもうまく伝わらない。
もしかするとその「違和感」こそを共有したいんだけど、そうなると重要なのは「理解」それ自体ではなく、むしろ「イゴコチノワルサ」の共有に力点がかかってしまうんです。パフォーマンスとしてチカラヲソソグところが間違ってる状態に(笑)
そのあたり、考え抜くべき価値あり。


以下はそのやりとりの引用です。
忘れないようにメモメモ。

引用開始---------------
私:
ほんの少し前まで、物質が連動して「生命」を持ち、意識を保っていた「生き物」が、ある瞬間に次元を違え、「あっ」という間に単なるモノの組み合わせになっていく。
フロギストン(西洋近世に信じられていた可燃性原素。実際には存在しなかった)じゃないけれど、何かが変質した、ということがわかる。
だから、「魂」を実体と捉えるのは、神に人格を求めるように不適切な振る舞いだ。

人格を伴った魂というのは、「この」身体における組み合わせが自己展開する様態に付けられた仮の名前にすぎないだろう。

父親と飼い犬が物質に戻る瞬間を立て続けに身近な事件として経験すると、人生を肯定的に受け止めるようになった。

悲しみや憎しみには何の力もない、というスピノザのコトバが、胸に沁みてきます。

自然について改めて考えてみるるようになったのは、大震災と原発事故に、それらの体験が重なったからでした。

魂とは、この世の中で、生命という「組合せ」によって自己展開し、なお生き続けようとする働きのことでしょう。
ハイデッガーは、人間だけが「死」から生を捉えることができる、と言っていましたが、そういうふうに結論や結果から遡及して物事を考えると、どうしても人間は「死」とは別の「目的」を設定したくなってしまいます。
結果→原因
が、その遡及を続けることでむしろ
現実→(行動)→目的
となり、
そして次の瞬間には
目的→(拘束)→現実
という不自由をもたらしてしまう。

死ぬまで生きるっていうシンプルな生命の自己展開を踏まえて豊かに生きるには、
「目的」という「道具」
ではみすぼらしすぎる。
人格に収斂しない豊かさの波動を生きたいものです。

師匠:
私がコメント書いた直後に、魂の本質をついたこれだけの文章を書く脳みそってどんななんだ?でも、相変わらずわかりにくいところがあるなあ。そこで宿題、「魂とは、この世の中で、生命という「組合せ」によって自己展開し、なお生き続けようとする働き」、この部分、つまり「魂」とは何か小学生でもわかるよう簡単に説明せよ。


>「相変わらずわかりにくちところかあるなあ」
いつも、よく、言われます(苦笑)
先日勉強会をやったときも言われました。

自分の中の感触に忠実にコトバを絵筆のように使っていくと、ああなっちゃう。難しいコトバが好きなわけでもないのです。
ただ、今使われている言葉ではなかなか通じないことを言おうとはしているらしい、そのぐらいには見方が「ヘンテコリン」なのは分かっています。
でも、とくべつなことがいいたいわけではない。みんなそういうところで生きているんじゃないかな、っては思う。

だから時々言葉にしてみたくもなるのです。

しかし、震災以後、見知らぬ人にも発信していく、と決めたからには、
「分かる分かる」もしくは「おもしろいね」
というリアクションを求めて「会員」を募るだけでは足りないことも自覚しています。

宿題、受け取りました。
生きているうちに出来るかなあ。
引用終了-------------------


福島県選出の大臣ですよね?

2013年09月01日 10時43分14秒 | 大震災の中で
復興大臣ってどこの選出議員だっけ?
可能な限り低線量に抑える努力をするのがきほんじゃないの?

安全神話を進めていた国や有識者、電力会社への不信は、実は基準それ自体への懸念同様に大きな問題ではないか? 
その基準提示の姿勢それ自体に対して、「再帰的」に疑念と不信が高まっていくという課題への鈍感さを感じる。

謝罪と啓蒙と説得、だけではダメだと思うよ。

私たちはまず何よりも、今まで起こったことを見つめ直し、これからどう生きたいか、を共有しなければ。

100ミリ以下は大勢に影響ない、なんて福島出身の議員に言わせるシステムは、あんまり良くないんじゃないかな。
素朴な感想。




復興大臣「100ミリ以下の健康影響わずか」支援法基本方針
http://www.ourplanet-tv.org/?q=node%2F1639