龍の尾亭<survivalではなくlive>版

いわきFCのファンです。
いわきFCの応援とキャンプ、それに読書の日々をメモしています。

Untitled

2013年09月22日 22時01分48秒 | 大震災の中で
昨日の「エチカ福島」勉強会の内容を、深瀬氏がまとめてくれました。
------------
昨日は、1時からエチカ福島の仲間とゲストとの勉強会、4時からはエチカの同人でもある純ちゃんらが主催する哲カフェ福島。勉強会は、小学校教員でありホッブズ研究でも知られるHさんと、エチカ仲間の島貫さんのレポート。面白かった。Hさんと島貫さんのレポートは、一方は日本の近代啓蒙的知識人たちに対するポストモダンと称する人々からの批判は有効か、といういささか大き過ぎるテーマであり、他方は根源悪についての本をオリジナルなテクストであるカントを参照しながら読むという、クロスするとは思えない2つのレポートであったが、驚くべきことにシンクロしてしまった。
Hさんのいう、発見的合理性という概念は面白い。かつてウェーバーは、近代をもたらしたものが、目的的合理性であり倫理性だと言った。目的的合理性については近代科学を参照すれば納得がいくが、倫理性に関しては何とプロテスタントの禁欲的精神に淵源するとしている。カルヴァンの予定説は、人間の自由意思を明確に否定するものだ。全ては予定されておりそれを人間が変更する余地はない。仕事は神が与えた言わば天職であって人間に許されるのはそれを全力で全うすることだけだ。このような、言ってみれば不合理が、科学的合理性と出会うことによって近代は誕生したというのである。

一方カントは、悪とは選択意志の結果によるとし、その責任を、あくまでも自由を持った人間に帰そうとする。しかし、それはその都度の事案に関しての選択ではなく、一般的な格率として人間が選んだ結果だというのだ。僕にはここにカントの苦心があると思える。つまり、前もって動機ないし目的があって僕たちは行為するのではなく、行為した後に目的が確認されるということを言いたいのではないか。人間が自由に選択した後に、驚くべきことに普遍的な格率であった!あたかも人間を超えた存在がいるかのようではないか!人間が理性的な存在であるのは、神の存在から説明するのではなくて、あくまでも人間の選択意志から出発したい、偏執狂的にそこにこだわるカントにとって、合理性は目的的ではなく、発見的であると言えるのではないか。合理性は発見されるべきものである。僕たちが理性的であるのは僕たちが自由意志によって選択された結果ではありえない。しかしながら、僕たちに、選択した結果に関する責任を負わせるためにはどうすればいいのか。カントの腐心はそこにある。
------------

同じ17世紀の哲学者スピノザを読んでいても、この「発見的合理性」というキーワードは響いてくるように思われます。
スピノザは『エチカ』において認識を三段階に分けます。
一つ目は、慣習的な判断で迷信や偏見にとらわれたもの。
二つ目は理性的な認識。
三つ目に直観的認識を置くのです。
この三つ目の「直観」と、ホッブズの読み手である渡部さん(最初の報告者)の指摘する「発見的理性」は、これから突き合わせて考えてみる価値がある、と感じます。

啓蒙的計画的な合理性だけでは世界と向き合うことにならない。

有意義な勉強会になりました。