平成湘南日記...一語一絵

あせらずゆっくりのんびりと
花とニャンコとクッキング
時々俳句とデジ散歩
自称カメラ小僧の気まぐれ風まかせ日記

今日はこんな日

2009-06-02 14:35:50 | 今日の事
今日は何の日?
と、ヤホーやゴーグル...で調べたところ...

▲横浜港開港記念日,長崎港記念日
1859(安政6)年、日米修好通商条約の締結により、それまでの下田・箱館(函館)のほか、横浜・長崎の港が開港。
今から丁度150年前。

▲裏切りの日
1582(天正10)年、本能寺の変で、織田信長が明智光秀に裏切られて攻められ、本能寺で自害。
中国の毛利攻の羽柴秀吉応援を命じられた明知光秀は、進軍の途中で道を変更し、本能寺の織田信長を襲った。

でした。

で、『本能寺の変』
襲撃を知った信長は近侍の森蘭丸に誰の襲撃か尋ね、光秀と聴くと「是非に及ばず」と応えて自害したと伝えられています。

「是非に及ばず」の意味は、
当否や善悪をあれこれ論じるまでもなく、そうするしかない。
どうしようもない。
しかたがない。
やむを得ない。
光秀なら用意周到であるから逃げ道はないし仕方がない、と思った。
...etc.

司馬遼太郎は「国盗り物語」の中で、このように書いている。
相変わらず言葉が短すぎ、意味はよくわからない。(中略)人間五十年下天ノウチニクラブレバ夢マボロシノゴトクナリ、という小謡の一章を愛唱し、霊魂を否定し、無神論を奉じているこの虚無主義者は、まるで仕事をするためにのみうまれてきたような生涯を送り、いまその完成途上で死ぬ。是非もなし、と瞬時、すべてを能動的にあきらめ去ったのであろう。
いろいろ解釈のある中で私はこれ納得できるような気がします。

しかし、越前朝倉攻めの際に、浅井長政の謀反を知ったときにも、「是非に及ばず」と言ったとも言われているそうです。
まてよ、これは彼の口癖だった...?
イヤ、多分信長は常にそのような死生観を持ちながら突っ走っていたのでしょうか。

ちなみに、「直江状」でも家康の言いがかりに対して「是非に及ばず候」と言っています。
とすると、当時戦国期の武将たちはこのような言葉を口にすることが多かったのでしょうか。

直江状
直江状について書いているサイトリンクしています。(ご参考にどうぞ)



<国盗り物語・後編/司馬遼太郎>