風月庵だより

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躾はじわじわと

2006-02-09 00:27:33 | Weblog
2月8日(水)晴れ【躾はじわじわと】
今朝また通勤時間に人身事故があり、電車が止まってしまった。おそらく飛び込み自殺であろう。ちょうど永六輔さんの『死に方、六輔の。』を車中で読んでいたのだが、たまたま年間の自殺者が三万数千人いるという箇所であった。それにしてもこの頃たびたび人身事故に遭遇しすぎである。

やむをえず通常のコースを諦めて井の頭線を使うことにしたが、事故の影響で大混雑。やっと乗れたのはよいが、男性の肘が私の背中の骨を強く押しつけてくるので、折れるのではないかと恐れるほどだった。人身事故の満員電車ではいつも大変な目に遭ってしまう。
自殺しなくても、いつか必ず死ねるのだから、もう少し生きてみてくれたらよかったのにと、今朝も満員電車の人の谷間で呼吸困難になりながら、そんなことを思っていた。

さて、帰りのプラットホームでのこと。電車を待っている列の先頭で、六年生ぐらいの男の子が二人ふざけあっていた。お互いに押し合っては反動で飛び退くというふざけ方で、線路に落ちはしないかとハラハラしていた。まもなく電車が入ってくるという放送が入っているのになかなか止めようとしない。周りの大人たちはなにも言わない。私は私の隣の人を押しのけて「危ないよ!」と思わず言った。二人はピタリと止めた。危ないからね、という顔で私は二人を見た。二人とも悪いことをして叱られた子供のように黙っていた。

もし反動が強くてホームに落ちでもしたら、それこそ取り返しがつかないことになる。周りの無関心の大人たちも、あのとき止めてやればよかったと、後悔することになるだろう。
思い出してみれば、いつのことか忘れたが、新宿駅のホームで自殺しようとする人を止めたことがあった。親に対しての不満から死のうと思ったのだそうだ。

今日ブログに書きたいことは自殺のことではなく、親の躾のことである。帰りの道を歩いていて、先刻の二人の少年の姿が浮かんできた。そしておかしな事に私は気づいた。一人の少年は押されて横に飛び跳ねる度に必ず白線より下がっていた。もう一人の少年は平気でホームの端まで飛び退き、電車が入ってきたときも白線よりも前に出ていた。

白線より下がっていた少年は、おそらく小さい頃から「白い線より中を歩きなさい」と言われ続けて育ったに違いないと私は思った。小さい頃は親の言う通りにできなかったかもしれないが、分別がついてくれば親に言われたことがいつの間にかできるようになるものである。白線よりも下がっていなくては危ない、電車にはねられたら死んでしまうから。彼はしっかりとそれを教えられながら育ったのではなかろうか。

もう一人の少年は、親からたいして注意もされずに育ってしまったのではなかろうか。もしかしたらこの予想は当たっていないかもしれないが、子供には注意すべきことは注意してあげることは大事な躾ではなかろうか、と私は思うが如何であろうか。

新宿駅での自殺未遂の娘さんについては、私の寺に泊まらせて親に迎えに来てもらった。ずいぶん我が儘に育っている印象を受けた。親がこどもの言いなりになっているようでは、きちんと責任ある人間には育てられない。幼児期から注意すべき事はきちんと注意し、まことを尽くして子供に躾なくてはなるまい。注意したその時には言うとおりにできなくても、いつのまにか注意されたことをできるように育っているものだと思う。

今目の前で言うとおりにできなくとも、注意すべきことは根気よく注意し続けることが、子供にとっては胸の奥に刻まれる大事な宝物になるだろう。親は目先のことにきりきりしないで、気長に躾し続けることであり、子供は聞いてさえいれば、自然に身についてくることだから、聞いていることが大事である。親の注意の聞くべき事は聞き、自分には不要なことは聞き捨て、取捨選択しながら育っていくのだと自分の経験からそう思うが如何であろう。

大人になってからでさえ、その時には分からなかったことが、ずいぶん後に分かることがある。私の経験であるが、、得度の師匠に厳しく躾られたが、この頃になってようやく師匠に感謝している自分に気づいている。躾られたことがじわじわと分かってきている。躾る方もじわじわと焦らず気長に。躾られる方もじわじわと育てられていけばよい。
電車のホームに遊びでも落ちないように。自殺しようとしても落ちないように願いたい。
付記:今朝電車のホームを見たら、白線だと思っていたら、黄色の線でした。私は私鉄を使っていますが、JRはどうかと友人に尋ねましたら、黄色だそうです。目の不自由な方のための配慮のプレートとして黄色で統一されているそうです。認識がなく失礼致しました。(2月9日)