9月19日(土)曇り【全巌東純禅師と雪舟】
私は長門、周防(現山口県)で室町時代に活躍なさった禅僧の研究を少ししていますが、その中の一人、全巌東純禅師についてまとめたものを少し掲載してみます。画家である雪舟について未発見のことを、禅僧の史伝の視点から見つけましたので、雪舟研究家の方に御参考にしていただければ幸甚です。また全巌禅師の法系の方に参考にしていただければと存じます。あまり関係の無い方には、興味のないログと思います。
【全巌東純禅師伝記資料及び雪舟との接点】
ー長門大寧寺七世、周防瑠璃光寺二世
はじめに
全巌東純禅師(自説一四二三~一四九五、以下全巌と略称))の伝記資料には、大寧寺に残されている『祖燈紹光録』(癡絶傳心編。宝永元年(一七〇四)成立。『祖燈紹光録』は大寧寺歴住者の伝記や語録を編集したもの。全一二冊現存。大寧寺所蔵。)、『続日域洞上諸祖伝』巻三(徳翁良高編。正徳四年(一七一四)刊。『大日本佛教全書』七〇史伝九。二五二~二五三頁。)と『日本洞上聯燈録』巻七(嶺南秀恕撰。寛保二年(一七四二)刊。『大日本佛教全書』七一史伝一〇。三一頁。)の全巌章がある。今まで全巖と絵師雪舟(一四二〇~一五〇六)との接点の資料は不明とされていたが、このたび『祖燈紹光録』の翻刻をなすにあたり、それを見いだすことができた。本論では、雪舟が描いたという全巖の頂相及び雪舟との接点の記載を紹介したい。
〈また『宗学研究』五一号に掲載しきれなかった年譜を付しておきたい。(*詳しい年譜に興味のある方はコメント欄にご一報ください)〉
〈さらに資料として、『祖燈紹光録』の翻刻、訓読及び語注、『続日域洞上諸祖伝』巻三と『日本洞上聯燈録』巻七の全巌章の訓読を付す。(*これは長すぎますので省略します。興味のある方はご一報ください)〉
一 全巌の頂相
現在山口市にある瑠璃光寺には全巌の頂相が残されている。それも雪舟(()の筆とされていて山口県の指定文化財になっている頂相である。
雪舟筆とされる根拠は、右下に書かれた「雪舟筆」の自署と、雪舟の号である「等楊」の落款(朱文)が押されていることからである。
雪舟は京都の戦乱を避けて、四〇才ころから山口に移り住んでいる。その後、明に渡ったりしているが、全巌の頂相を描いた頃は、山口に住んでいた。それも瑠璃光寺から東北の天花というところにあった雲谷庵に住んでいたことが分かっている。禅僧全巌とおそらく交流があったであろうと容易に推測はできる。この交流の確実な記載が『祖燈紹光録』の中に見いだすことができたので、次の項に紹介したい。
瑠璃光寺には他にも全巌の本師、瑠璃光寺の勧請開山である大庵須益禅師(一四〇六~一四七三、以下大庵と略称)の頂相と全巌の法嗣桃岳瑞見禅師(?~一五一八、以下瑞見と略称)の頂相が残されていて、この三幅が、瑠璃光寺の宝物館に展示されているが、この三幅を比べてみると、やはり雪舟筆とされる全巌の頂相は絵として格段上のできばえである。表情の皺一本から、また衣の襞の線、枯淡に仕上げたお袈裟の色にも、弟子の描いたといわれる他の二幅とは違う趣がある。
しかし絵としての出来栄えはともかく、こうしてその人の風貌を伝える頂相の存在は実に筆舌を超える語りかけがある。全巌の頂相からは、どっしりと落ち着いた禅僧の威厳が感じられる。そして不明とされている全巌の生年を読み解ける裏付けともなりそうである。
曹洞宗総合研究センター刊行の研究誌『宗学研究』のほうに、不明とされている全巌の生年については、おそらく応永三〇年(一四二三)であろうと書いたのだが、その根拠は『祖燈紹光録』の本文の脇に記載された「世寿七十三」からの逆算である。
この頂相の風貌に、ちょうどその年齢を示す年輪を感じられるのである。裏付けの一つにあげたいところである。なお兄弟弟子の龍文寺五世為宗仲心(?~一五〇五)が、全巌示寂の翌年に、頂相の賛を付けている。
それにしても器之為璠禅師(一四〇四~一四六八、以下器之と略称)を中心として研究している筆者としては、実に今回残念な思いをしている。というのは、器之の本師竹居正猷禅師(一三八〇~一四六一)はその頂相彫刻が鹿児島の妙円寺に残され、その師石屋真梁禅師(一三四五~一四二三)の頂相彫刻も同寺に残されている。石屋の像は室町時代の作とされている。
そして器之の法嗣、大庵にも、その法嗣全巌にも、その法嗣瑞見にも頂相が今に伝わるというのに、器之のみその風貌を伝えるものが残されていないとは残念至極である。これはおそらく器之が住した大寧寺や龍文寺が何回もの火災に遭っていることによるであろう。そして法嗣が大庵唯一人であるということも一つの因にあげられるであろう。しかし、まだ可能性が全くないとはいえない。どこかのお寺の蔵の隅から発見されないとは限らないので、一縷の望みを残しておきたい。
二 雪舟との接点
『祖燈紹光録』のなかに全巖と雪舟が面識のあったことの裏付けとなる記載は次のようである。
前(永間)、唐僧来山曰、地勢不異我方廬山、実起大教境也。宜哉。文明十四年壬寅春締構方丈。教雲谷雪舟山門十境画千壁。
前に(永の間)、唐僧来山して曰く、地勢我が方廬山に異ならず、実に大教の境を起こすなり。宜しき哉、と。文明十四年壬寅の春、方丈を締構して、雲谷の雪舟をして、山門十境を千壁に画かしむ。
(私訳)
永徳年間(一三八一~一三八三)に、唐から僧が来山して、「この地は、中国の盧山と同じである。まことに仏の教えの気持ちを起こさせるように素晴らしい」と、言った。文明十四年の春、(大寧寺の)方丈を構えたので、雲谷庵の雪舟に、「山門十境」の詩の風景画を壁の総てに画かせた。
文中の唐僧は、明使の趙秩(生卒年不詳、号、鰐水)とともに来日した禅僧仲猷祖闡か天台僧無逸克勤のことか。(これらの禅僧の名は荒巻大拙氏の『山口十境詩』(平成二〇年七月、イストワール大内文化)に書かれる。伝記など詳細は現段階では不明である。
また「山門十境詩」は趙秩が詠んだ「山口十境詩」を真似たものであるか、または「山口十境詩」のことか、断定はできない。もう少し検討の余地はある。しかし、その詩の風景を雪舟に画かせたことが、この記載より見いだすことができた。
山本一成氏の『雪舟と山口』(平成一六年三月、大内文化探訪会出版、雪舟没後五〇〇年記念)によれば「雲谷庵での画業」として文明16年からは判明していたが、『祖燈紹光録』の記載により、文明14年に雪舟の作品が雲谷庵でなされたことが判明したことになる。また、この時、全巌は大寧寺の住職なので、雪舟とは瑠璃光寺住持時代だけでなく、すでに大寧寺住持時代から交流のあったことが、判明したことになるのである。この記載により、全巌の頂相は、雪舟が実際に相見したことのある全巌を画いたということを立証できたのである。
三 雪舟作国宝「秋冬山水図」について
国宝である「秋冬山水図」の制作年代は不詳となっているが『祖燈紹光録』翻刻により、筆者はおそらく文明14年ではなかろうか、そしてこれは「山口十境詩」のなかの「南明秋興」と「象峰積雪」を画いた作品ではないかと推論するものである。(これについては雪舟研究者の方のご研究におまかせしたい)
四 伝記資料について
全巌の伝記資料として最古といえるのは『祖燈紹光録』であろう。これは宝永元年(一七〇四)の成立で、大寧寺歴住者の伝記や語録を編集したものである。大寧寺二八世癡絶傳心(一六四八~一七〇八)の編による。全一二冊現存している。全巌については大庵とともに『祖燈紹光録』五として収録されている。伝記資料だけではなく上堂語等多く含まれている。筆写本である。
刊本としては『続日域洞上諸祖伝』巻三と『日本洞上聯燈録』巻七がある。前者は徳翁良高(一六四九~一七〇九)編で正徳四年(一七一四)に刊行されている。後者は嶺南秀恕(一六七五~一七五二)編で寛保二年(一七四二)の刊行である。いずれも江戸時代に入ってから編集されたものであり、全巌示寂後二〇〇年以上たってからのものである。しかし、『祖燈紹光録』に記載のない月日などもあるので、史伝資料として短いが貴重である。
なお『日本洞上聯燈録』の記載は『続日域洞上諸祖伝』をもとにしていて、ほとんど同文の記載が多い。
五 年譜
応永三〇(一四二三) 生誕。羽州(山形県)
永享七 (一四三五)一三才 死地より還魂
永享八 (一四三六)一四才 羽黒山で剃髪。真言寺院
永享一〇(一四三八)一六才 送行。諸国寺院を行脚修行(真言密教寺院)
寛正元 (一四六〇)三八才 鎌倉、円覚寺で改宗。(三夏安居する)
寛正三 (一四六二)四〇才 鎌倉出立。 京都南禅寺、天隠竜沢に学ぶ
寛正四 (一四六三)四一才 永澤寺にて器之と相見。器之、大寧寺に戻る
全巌随侍
寛正五 (一四六四)四二才 器之、龍文寺に戻る。全巌随侍
文正元 (一四六六) 上杉憲実、大寧寺槎留軒で示寂
応仁二 (一四六八)四六才 一月一一日 嗣法。本師大庵。於大寧寺
五月 大庵、龍文寺へ。全巌大寧寺の院事を勤める
五月二四日 器之示寂。世寿六五。
文明三 (一四七一)四九才 大寧寺七世として開堂。大庵、耕雲軒を建てる。
大庵、安養寺開山となる
大庵總持寺輪住二五六世
文明五 (一四七三)五一才 三月二三日 大庵示寂。世寿六八
全巌、安養寺二世か?
一一月二二日總持寺輪住二八三世として入寺。
文明一四 (一四八二)六〇才 雪舟に十境詩の絵を描かせる。
長享二 (一四八八)六六才 竹居の塔を作成。(塔銘を天隠に依頼)
明応元 (一四九二)七〇才 瑠璃光寺に入寺。
明応四 (一四九五)七三才 一二月一〇日 示寂。世寿七三。
『宗学研究紀要』第22号(2009年3月発行)掲載論文を少し訂正。
私は長門、周防(現山口県)で室町時代に活躍なさった禅僧の研究を少ししていますが、その中の一人、全巌東純禅師についてまとめたものを少し掲載してみます。画家である雪舟について未発見のことを、禅僧の史伝の視点から見つけましたので、雪舟研究家の方に御参考にしていただければ幸甚です。また全巌禅師の法系の方に参考にしていただければと存じます。あまり関係の無い方には、興味のないログと思います。
【全巌東純禅師伝記資料及び雪舟との接点】
ー長門大寧寺七世、周防瑠璃光寺二世
はじめに
全巌東純禅師(自説一四二三~一四九五、以下全巌と略称))の伝記資料には、大寧寺に残されている『祖燈紹光録』(癡絶傳心編。宝永元年(一七〇四)成立。『祖燈紹光録』は大寧寺歴住者の伝記や語録を編集したもの。全一二冊現存。大寧寺所蔵。)、『続日域洞上諸祖伝』巻三(徳翁良高編。正徳四年(一七一四)刊。『大日本佛教全書』七〇史伝九。二五二~二五三頁。)と『日本洞上聯燈録』巻七(嶺南秀恕撰。寛保二年(一七四二)刊。『大日本佛教全書』七一史伝一〇。三一頁。)の全巌章がある。今まで全巖と絵師雪舟(一四二〇~一五〇六)との接点の資料は不明とされていたが、このたび『祖燈紹光録』の翻刻をなすにあたり、それを見いだすことができた。本論では、雪舟が描いたという全巖の頂相及び雪舟との接点の記載を紹介したい。
〈また『宗学研究』五一号に掲載しきれなかった年譜を付しておきたい。(*詳しい年譜に興味のある方はコメント欄にご一報ください)〉
〈さらに資料として、『祖燈紹光録』の翻刻、訓読及び語注、『続日域洞上諸祖伝』巻三と『日本洞上聯燈録』巻七の全巌章の訓読を付す。(*これは長すぎますので省略します。興味のある方はご一報ください)〉
一 全巌の頂相
現在山口市にある瑠璃光寺には全巌の頂相が残されている。それも雪舟(()の筆とされていて山口県の指定文化財になっている頂相である。
雪舟筆とされる根拠は、右下に書かれた「雪舟筆」の自署と、雪舟の号である「等楊」の落款(朱文)が押されていることからである。
雪舟は京都の戦乱を避けて、四〇才ころから山口に移り住んでいる。その後、明に渡ったりしているが、全巌の頂相を描いた頃は、山口に住んでいた。それも瑠璃光寺から東北の天花というところにあった雲谷庵に住んでいたことが分かっている。禅僧全巌とおそらく交流があったであろうと容易に推測はできる。この交流の確実な記載が『祖燈紹光録』の中に見いだすことができたので、次の項に紹介したい。
瑠璃光寺には他にも全巌の本師、瑠璃光寺の勧請開山である大庵須益禅師(一四〇六~一四七三、以下大庵と略称)の頂相と全巌の法嗣桃岳瑞見禅師(?~一五一八、以下瑞見と略称)の頂相が残されていて、この三幅が、瑠璃光寺の宝物館に展示されているが、この三幅を比べてみると、やはり雪舟筆とされる全巌の頂相は絵として格段上のできばえである。表情の皺一本から、また衣の襞の線、枯淡に仕上げたお袈裟の色にも、弟子の描いたといわれる他の二幅とは違う趣がある。
しかし絵としての出来栄えはともかく、こうしてその人の風貌を伝える頂相の存在は実に筆舌を超える語りかけがある。全巌の頂相からは、どっしりと落ち着いた禅僧の威厳が感じられる。そして不明とされている全巌の生年を読み解ける裏付けともなりそうである。
曹洞宗総合研究センター刊行の研究誌『宗学研究』のほうに、不明とされている全巌の生年については、おそらく応永三〇年(一四二三)であろうと書いたのだが、その根拠は『祖燈紹光録』の本文の脇に記載された「世寿七十三」からの逆算である。
この頂相の風貌に、ちょうどその年齢を示す年輪を感じられるのである。裏付けの一つにあげたいところである。なお兄弟弟子の龍文寺五世為宗仲心(?~一五〇五)が、全巌示寂の翌年に、頂相の賛を付けている。
それにしても器之為璠禅師(一四〇四~一四六八、以下器之と略称)を中心として研究している筆者としては、実に今回残念な思いをしている。というのは、器之の本師竹居正猷禅師(一三八〇~一四六一)はその頂相彫刻が鹿児島の妙円寺に残され、その師石屋真梁禅師(一三四五~一四二三)の頂相彫刻も同寺に残されている。石屋の像は室町時代の作とされている。
そして器之の法嗣、大庵にも、その法嗣全巌にも、その法嗣瑞見にも頂相が今に伝わるというのに、器之のみその風貌を伝えるものが残されていないとは残念至極である。これはおそらく器之が住した大寧寺や龍文寺が何回もの火災に遭っていることによるであろう。そして法嗣が大庵唯一人であるということも一つの因にあげられるであろう。しかし、まだ可能性が全くないとはいえない。どこかのお寺の蔵の隅から発見されないとは限らないので、一縷の望みを残しておきたい。
二 雪舟との接点
『祖燈紹光録』のなかに全巖と雪舟が面識のあったことの裏付けとなる記載は次のようである。
前(永間)、唐僧来山曰、地勢不異我方廬山、実起大教境也。宜哉。文明十四年壬寅春締構方丈。教雲谷雪舟山門十境画千壁。
前に(永の間)、唐僧来山して曰く、地勢我が方廬山に異ならず、実に大教の境を起こすなり。宜しき哉、と。文明十四年壬寅の春、方丈を締構して、雲谷の雪舟をして、山門十境を千壁に画かしむ。
(私訳)
永徳年間(一三八一~一三八三)に、唐から僧が来山して、「この地は、中国の盧山と同じである。まことに仏の教えの気持ちを起こさせるように素晴らしい」と、言った。文明十四年の春、(大寧寺の)方丈を構えたので、雲谷庵の雪舟に、「山門十境」の詩の風景画を壁の総てに画かせた。
文中の唐僧は、明使の趙秩(生卒年不詳、号、鰐水)とともに来日した禅僧仲猷祖闡か天台僧無逸克勤のことか。(これらの禅僧の名は荒巻大拙氏の『山口十境詩』(平成二〇年七月、イストワール大内文化)に書かれる。伝記など詳細は現段階では不明である。
また「山門十境詩」は趙秩が詠んだ「山口十境詩」を真似たものであるか、または「山口十境詩」のことか、断定はできない。もう少し検討の余地はある。しかし、その詩の風景を雪舟に画かせたことが、この記載より見いだすことができた。
山本一成氏の『雪舟と山口』(平成一六年三月、大内文化探訪会出版、雪舟没後五〇〇年記念)によれば「雲谷庵での画業」として文明16年からは判明していたが、『祖燈紹光録』の記載により、文明14年に雪舟の作品が雲谷庵でなされたことが判明したことになる。また、この時、全巌は大寧寺の住職なので、雪舟とは瑠璃光寺住持時代だけでなく、すでに大寧寺住持時代から交流のあったことが、判明したことになるのである。この記載により、全巌の頂相は、雪舟が実際に相見したことのある全巌を画いたということを立証できたのである。
三 雪舟作国宝「秋冬山水図」について
国宝である「秋冬山水図」の制作年代は不詳となっているが『祖燈紹光録』翻刻により、筆者はおそらく文明14年ではなかろうか、そしてこれは「山口十境詩」のなかの「南明秋興」と「象峰積雪」を画いた作品ではないかと推論するものである。(これについては雪舟研究者の方のご研究におまかせしたい)
四 伝記資料について
全巌の伝記資料として最古といえるのは『祖燈紹光録』であろう。これは宝永元年(一七〇四)の成立で、大寧寺歴住者の伝記や語録を編集したものである。大寧寺二八世癡絶傳心(一六四八~一七〇八)の編による。全一二冊現存している。全巌については大庵とともに『祖燈紹光録』五として収録されている。伝記資料だけではなく上堂語等多く含まれている。筆写本である。
刊本としては『続日域洞上諸祖伝』巻三と『日本洞上聯燈録』巻七がある。前者は徳翁良高(一六四九~一七〇九)編で正徳四年(一七一四)に刊行されている。後者は嶺南秀恕(一六七五~一七五二)編で寛保二年(一七四二)の刊行である。いずれも江戸時代に入ってから編集されたものであり、全巌示寂後二〇〇年以上たってからのものである。しかし、『祖燈紹光録』に記載のない月日などもあるので、史伝資料として短いが貴重である。
なお『日本洞上聯燈録』の記載は『続日域洞上諸祖伝』をもとにしていて、ほとんど同文の記載が多い。
五 年譜
応永三〇(一四二三) 生誕。羽州(山形県)
永享七 (一四三五)一三才 死地より還魂
永享八 (一四三六)一四才 羽黒山で剃髪。真言寺院
永享一〇(一四三八)一六才 送行。諸国寺院を行脚修行(真言密教寺院)
寛正元 (一四六〇)三八才 鎌倉、円覚寺で改宗。(三夏安居する)
寛正三 (一四六二)四〇才 鎌倉出立。 京都南禅寺、天隠竜沢に学ぶ
寛正四 (一四六三)四一才 永澤寺にて器之と相見。器之、大寧寺に戻る
全巌随侍
寛正五 (一四六四)四二才 器之、龍文寺に戻る。全巌随侍
文正元 (一四六六) 上杉憲実、大寧寺槎留軒で示寂
応仁二 (一四六八)四六才 一月一一日 嗣法。本師大庵。於大寧寺
五月 大庵、龍文寺へ。全巌大寧寺の院事を勤める
五月二四日 器之示寂。世寿六五。
文明三 (一四七一)四九才 大寧寺七世として開堂。大庵、耕雲軒を建てる。
大庵、安養寺開山となる
大庵總持寺輪住二五六世
文明五 (一四七三)五一才 三月二三日 大庵示寂。世寿六八
全巌、安養寺二世か?
一一月二二日總持寺輪住二八三世として入寺。
文明一四 (一四八二)六〇才 雪舟に十境詩の絵を描かせる。
長享二 (一四八八)六六才 竹居の塔を作成。(塔銘を天隠に依頼)
明応元 (一四九二)七〇才 瑠璃光寺に入寺。
明応四 (一四九五)七三才 一二月一〇日 示寂。世寿七三。
『宗学研究紀要』第22号(2009年3月発行)掲載論文を少し訂正。