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『加藤司書の周辺ー筑前藩・乙丑の獄始末』

2010-04-08 10:10:12 | Weblog
4月8日(木)晴【『加藤司書の周辺ー筑前藩・乙丑(いっちゅう)の獄始末』】(志士の一人、平野国臣の歌「君が世の安けかりせばかねてより 身は花守となりけんものを」)

この書は、幕末の混乱期にあって、勤王派の筑前藩の家臣たちが、無念ではあるが潔くも散っていった姿を、丹念に描いている。藩のため、日本の未来はどの道をいったらよいか、しっかりと見据えた加藤司書等有能な家臣たち。彼らを無惨にも断罪し処刑させたのは、佐幕派のいいなりに揺らいだ藩主黒田長溥。

家老を辞任した加藤司書に切腹の命が下ったのは、慶応元年(1865)年10月25日(陰暦)のことであった。切腹の仮屋が設けられたのは、萬境山天福寺である。「君君たらざるも臣臣たらざるべからず」たとえ君主が君主としていたらなくとも、家臣は家臣の分を守りきらねばならない、家臣がいたらないということは許されないのが、武士道であった。そして喜怒を顔色に表すことは武士として男らしくない、と鍛えられたその人は、従容として死を受け入れたのであった。享年36歳。辞世の歌「君がため尽くすまごころ 今よりはなほいやまさる武士の一念」

このような人びとが、加藤司書のみならず、幕末期の日本にはあちこちにいらっしゃったのですね。この書『加藤司書の周辺ー筑前藩・乙丑の獄始末』(成松正隆著、平成9年西日本新聞社刊)は、この前のブログで紹介しました自聰和尚が萬境山天福寺の住職なので、その縁で頂いた本です。熱い心を持ち、国のために生きた人びとへの鎮魂の書だと思います。多くの有能かつ真ある家臣を断罪して、失ってしまっていた筑前藩は、藩主もろとも明治の新政府では活躍することはできなかったのです。

実はこの本の中に野村望東尼のお名前をすぐに見つけまして、さらに心引かれたのです。野村望東尼については、宗研に勤めていました時、「曹洞宗関係文献目録」を毎年研究所としてまとめていまして、一昨年の自分の分担の中に、この尼師関係の文献が多くありました。いかなる人かと気になりましたが、福岡の明光寺というお寺のお弟子で、曹洞宗の尼僧であり歌人であった、とだけ知っていました。この方こそ、幕末の激動の筑前藩を、勤王の志士たちと共に生き、流刑までされたという方であったと、この書を読んで、具体的に結びつきました。またこの方が、乙丑(いっちゅう)の獄に関する人びとの動向も書き記していて、その資料も大分この書には取り入れられているようです。勤王の志士を匿ったり、なかなか女丈夫な尼師だったようです。こういう方が、禅尼師としていらっしゃったのですね。

この書はかなりの分量があり、読みでがありますが、文章が勝れていまして読みやすいです。著者の経歴を見ましたら、新聞記者を経験していらっしゃいます。文章修行をなさっている方の読みやすい文章です。ご一読をお奨めしたいです

「織田信長のうたいけり。人間わずか50年。てんで格好よく死にてぇな」こんな言葉を学生時代、よく耳にした記憶があります。映画『真田風雲録』で使われたようですが、最後のフレイズのみ耳に残っています。これは少し揶揄も入っているでしょうが、学生運動盛んであった頃の学生には、憂国の士もいたでしょう。

お釈迦様の降誕会に、このような記事をupしておきます。

平野国臣(斬殺される。享年37歳)の和歌:
               我が胸の燃ゆる思ひにくらぶれば 煙は淡し桜島山
万代十兵衛(切腹、享年32歳)辞世の俳句:さかぬまに 嵐に散るや 花桜

*天福坊和尚さんから次のような申し出がありました。
「加藤司書の周辺」は絶版でございます。
しかしながら、卑山にまだ在庫がありますので、入手されたい方は天福坊じそう ten-tem.1@wine.ocn.ne.jp までお申し出下さい。