6月5日(土)曇り【猫を斬った南泉】
南泉普願(なんせんふがん)は馬祖道一(ばそどういつ)の弟子の一人です。前にも牛の話で紹介しましたが、猫を斬った話が有名です。「南泉斬猫の話」といいます。猫好きの私としましては、勿論受け入れがたい話ですが、ご紹介します。
南泉の第一座が猫を飼っていたところ、この猫が隣の単(坐禅堂で坐禅をするところのこと)の足に傷をつけたのがもとで僧たちの争いが始まりました。知らせを受けた南泉が飛んできて、すぐに猫をとりあげて言いました。「(ズバリ悟りを)言い得たならば、猫の命を救うことができるぞ」と。僧たちは答えられなかったので、猫は二つに斬られてしまったというのです。
この話は『祖堂集』という史伝に、書かれています。他の史伝では少し違います。それにしましても、当時、叢林内で猫を飼うことが許されていたのでしょうか。先ずその疑問が生じます。猫を可愛がっていては修行の妨げになると、当時の叢林においては南泉は日頃から思っていたかもしれません。猫を飼っている私としてはよく分かりますが、猫の可愛らしさに時を忘れてしまいます。修行道場で、猫を飼っていては修行が疎かになったかもしれません。まして大衆を導く立場にいる首座さんですから、南泉和尚もこれは困ったことだ、と思っていたのではないでしょうか。
どうも南泉山の首座さんは、他の話にも出てきますが、気持ちの優しい人だったように受け取れます。
『祖堂集』とは別の史伝には、趙州従諗(じょうしゅうじゅうしん)というお弟子さんがこの話に出てきます。趙州和尚さんは120歳まで生きたというお坊さんです。
趙州に、先ほどの猫の話を南泉が話しましたら、趙州は草鞋を脱ぎ頭に載せてその場を出て行ってしまいました。「もし趙州がいたなら、猫を救うことができただろうに」と南泉和尚は言ったということです。
さあ、皆さんはどう思われますか。当時の禅院の修行は、今では想像もできないものだったでしょう。悟りを求めて必死に修行していましたし、それを導く住職は雲水たちの悟りを導こうとして、いつも試していたようです。
ただ「悟りとは」ということになりますと、簡単に書きようがありません。南泉の弟子たちは言葉でもってそれを「説明」しようとしたのです。理知で悟りを表そうとしたのです。言語表現を超越したところを、趙州は草履を頭に載せて去っていった、というわけでしょう。
また現在は状況が違いますから、修行道場でも捨て猫をたくさん飼っていてくれるお寺もあります。なんでも一概には語れませんが、叢林で猫を飼うことは修行する気持ちが軟弱になるので認めがたいと思っていたかもしれませんが、南泉も斬った後は、慚愧にたえない気持ちだったのではないでしょうか。
南泉和尚が「異類中行(いるいちゅうぎょう)」(異類の中を行くー成仏していない衆生を救うために、自らもその中にはいって行く)を唱えるようになったのは、猫を斬ったことの懺悔の気持ちからかしら、などと思うのは安直すぎるでしょうか。
今日はルナの写真は載せません。
南泉普願(なんせんふがん)は馬祖道一(ばそどういつ)の弟子の一人です。前にも牛の話で紹介しましたが、猫を斬った話が有名です。「南泉斬猫の話」といいます。猫好きの私としましては、勿論受け入れがたい話ですが、ご紹介します。
南泉の第一座が猫を飼っていたところ、この猫が隣の単(坐禅堂で坐禅をするところのこと)の足に傷をつけたのがもとで僧たちの争いが始まりました。知らせを受けた南泉が飛んできて、すぐに猫をとりあげて言いました。「(ズバリ悟りを)言い得たならば、猫の命を救うことができるぞ」と。僧たちは答えられなかったので、猫は二つに斬られてしまったというのです。
この話は『祖堂集』という史伝に、書かれています。他の史伝では少し違います。それにしましても、当時、叢林内で猫を飼うことが許されていたのでしょうか。先ずその疑問が生じます。猫を可愛がっていては修行の妨げになると、当時の叢林においては南泉は日頃から思っていたかもしれません。猫を飼っている私としてはよく分かりますが、猫の可愛らしさに時を忘れてしまいます。修行道場で、猫を飼っていては修行が疎かになったかもしれません。まして大衆を導く立場にいる首座さんですから、南泉和尚もこれは困ったことだ、と思っていたのではないでしょうか。
どうも南泉山の首座さんは、他の話にも出てきますが、気持ちの優しい人だったように受け取れます。
『祖堂集』とは別の史伝には、趙州従諗(じょうしゅうじゅうしん)というお弟子さんがこの話に出てきます。趙州和尚さんは120歳まで生きたというお坊さんです。
趙州に、先ほどの猫の話を南泉が話しましたら、趙州は草鞋を脱ぎ頭に載せてその場を出て行ってしまいました。「もし趙州がいたなら、猫を救うことができただろうに」と南泉和尚は言ったということです。
さあ、皆さんはどう思われますか。当時の禅院の修行は、今では想像もできないものだったでしょう。悟りを求めて必死に修行していましたし、それを導く住職は雲水たちの悟りを導こうとして、いつも試していたようです。
ただ「悟りとは」ということになりますと、簡単に書きようがありません。南泉の弟子たちは言葉でもってそれを「説明」しようとしたのです。理知で悟りを表そうとしたのです。言語表現を超越したところを、趙州は草履を頭に載せて去っていった、というわけでしょう。
また現在は状況が違いますから、修行道場でも捨て猫をたくさん飼っていてくれるお寺もあります。なんでも一概には語れませんが、叢林で猫を飼うことは修行する気持ちが軟弱になるので認めがたいと思っていたかもしれませんが、南泉も斬った後は、慚愧にたえない気持ちだったのではないでしょうか。
南泉和尚が「異類中行(いるいちゅうぎょう)」(異類の中を行くー成仏していない衆生を救うために、自らもその中にはいって行く)を唱えるようになったのは、猫を斬ったことの懺悔の気持ちからかしら、などと思うのは安直すぎるでしょうか。
今日はルナの写真は載せません。