風月庵だより

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潙山も牛になる

2010-06-09 06:58:49 | Weblog
6月9日(水)雨【潙山も牛になる】 (上の写真は全く牛ではありませんが、ルナです)

宮崎の口蹄疫問題は、少し収まってきたようですが、現地ではまだの感でしょうか。運搬車が口蹄疫の感染経路の一原因という指摘があるそうです。感染した牛を運んだ車で、感染していない牛も運搬したようです。渦中にいると見えないことが多いのですから、外野の関係者(学者の人も含め)は、早くにこのようなことに気がついてくれればよいがと思います。

クールな立場の人を、早くに現地に派遣する体制作りが必要ですね。

さて、潙山霊祐(いさんれいゆう七七一~八五三)という禅僧が唐の時代にいました。馬祖道一(ばそどういつ)の法嗣である百丈懐海(ひゃくじょうえかい)の弟子になります。潙山は、出身は長渓(福建省福州)。十五歳で建善寺の法常律師のもとで出家しました。杭州(浙江省)の龍興寺で受戒。龍興寺という名前のお寺は各地にあるそうですね。ここで経律を学びました。

ところで、当時、具足戒は20歳を過ぎると受けましたが、戒を受けるには難関の試験に合格しなくてはならなかったのです。具足戒を受けている僧は、経律は当然のこととしてよく学んでいたのです。経典の文字など捨てろというようなことを禅僧の言葉の中に見いだして、勉強しなくていいのだ、と受け取ったら大間違いですね。当時の僧は、さんざん経典も律も論も学んだ揚げ句、文字を離れているのです。

潙山は、二十三歳のとき、百丈懐海の門弟となりますが、百丈は一見して潙山の力量を見抜き、入門を許しています。

元和年間(八〇六~八二〇)の末に、潙山は縁があって長沙府(湖南省)にある潙山に入ります。人里離れたところで、猿たちに混じって、橡栗(とちくり)などを食べて修行生活を続けていたのです。そのうち山下の住民たちがそれを知って、皆でやってきて寺を建ててくれたということです。司馬頭陀(しばづた)という人物が、潙山にある寺の住持探しにやってきて、潙山霊祐の歩く姿を見ただけで「この人物こそ、潙山の山主にふさわしい」と言って、潙山霊祐を選んだ、という話もありますが、これは後の創作のようです。(私は師匠のもとで修行時代、この話を聞いて、歩き方を気にしたことがあります、おかしいですね)


多くの弟子達を育てましたが、いよいよ臨終の頃の上堂で、「わしは死んだ後は、山下の水牯牛となり、脇腹に「潙山僧霊祐」と書いて生まれ変わるだろう。この時、潙山の僧と喚べば水牯牛だし、水牯牛と喚べば潙山だし、さあ、どう喚んだらよいか」などと弟子たちに最後の問答をかけています。

さあ、なんと喚んだらよいのでしょう。この説示は、最後まで弟子たちの頭でっかち、知解からの解放を願っての祖師の置きみやげでしょう。

示寂は大中七年(八五三)一月九日。世寿八十三。法臘六十四。諡号は大円禅師です。

*因みに釈尊は子どもの頃、ゴータマと喚ばれていたそうですが、最良の牛という意味だそうですね。