7月25日(日)晴【天の花】
釈尊の十大弟子の一人、須菩提(しゅぼだい)の話。須菩提は解空(げくう)第一といわれ、空に対しての理解がダントツだったお弟子さんです。この方が、巌の上で坐禅をしていたら、梵天が花の雨を降らせた、という話があります。これは『天聖広燈録』という史伝に書かれています。
しかし、梵天が花の雨を降らせるような神通力を、坐禅をすると得られると思うことは間違いと、道元禅師は誡めていらっしゃいます。
また、牛頭法融(ごずほうゆう、594~647)という禅僧が、牛頭山幽棲寺の北巖の石室で修行していたとき、百鳥が花を銜(くわ)えてきて牛頭に供養をしていたといいます。
しかし、四祖道信の導きで悟ってからは、これ以後百鳥が再び花を銜えて来ることはなかったといいます。
このように奇瑞はあっても、それは悟れば消えるのであり、奇瑞が表れているようでは、まだ修行が足りないと言ってもよいでしょうか。
私事になりますが、かつて用事があって香港を訪ねたとき、ホテルの部屋に「花を飾りましょう」という声が心にしました。しかし、もう夜ですし、花屋さんがどこにあるかも分かりません。
すると、「とにかく外に出てご覧なさい」とまた心の声がしたので、外に出ました。辺りはすっかり暗くなっていて、人通りも途絶えています。「少し歩いてみて」と言われましたので、坂道を下ってみました。花屋さんはありそうもありません。「戻って後ろを見て」と言われたので、きびすを返しました。途端に右側のホテルの前の路上に黄色のフリージャーの花束が置かれていました。「それを持って帰りましょう」と言われたので、その通りにしました。フリージャーは新鮮でした。
こんな私の経験もあります。しかし、この頃は、悟ったわけではありませんが、そんなことはありません。花が必要ならば、花屋さんに行けば買えますしね。
そんな不思議なことができなくてもよいのですが、そういうこともあるということは経験から否定はしません。しかし、日常のことこそ大事ですし、神通力を得るために坐禅をするのではありません。ただ、そういうこともあるということを、受け入れられる幅があってもよいかなと思います。
(我こそ禅僧と思う方は、花を蹴飛ばすかもしれませんね。)
宇宙とぶっつづきのそれぞれの生命。今日も一日が過ぎました。今日も暑い一日でしたね。
熱中症にご注意ください。
釈尊の十大弟子の一人、須菩提(しゅぼだい)の話。須菩提は解空(げくう)第一といわれ、空に対しての理解がダントツだったお弟子さんです。この方が、巌の上で坐禅をしていたら、梵天が花の雨を降らせた、という話があります。これは『天聖広燈録』という史伝に書かれています。
しかし、梵天が花の雨を降らせるような神通力を、坐禅をすると得られると思うことは間違いと、道元禅師は誡めていらっしゃいます。
また、牛頭法融(ごずほうゆう、594~647)という禅僧が、牛頭山幽棲寺の北巖の石室で修行していたとき、百鳥が花を銜(くわ)えてきて牛頭に供養をしていたといいます。
しかし、四祖道信の導きで悟ってからは、これ以後百鳥が再び花を銜えて来ることはなかったといいます。
このように奇瑞はあっても、それは悟れば消えるのであり、奇瑞が表れているようでは、まだ修行が足りないと言ってもよいでしょうか。
私事になりますが、かつて用事があって香港を訪ねたとき、ホテルの部屋に「花を飾りましょう」という声が心にしました。しかし、もう夜ですし、花屋さんがどこにあるかも分かりません。
すると、「とにかく外に出てご覧なさい」とまた心の声がしたので、外に出ました。辺りはすっかり暗くなっていて、人通りも途絶えています。「少し歩いてみて」と言われましたので、坂道を下ってみました。花屋さんはありそうもありません。「戻って後ろを見て」と言われたので、きびすを返しました。途端に右側のホテルの前の路上に黄色のフリージャーの花束が置かれていました。「それを持って帰りましょう」と言われたので、その通りにしました。フリージャーは新鮮でした。
こんな私の経験もあります。しかし、この頃は、悟ったわけではありませんが、そんなことはありません。花が必要ならば、花屋さんに行けば買えますしね。
そんな不思議なことができなくてもよいのですが、そういうこともあるということは経験から否定はしません。しかし、日常のことこそ大事ですし、神通力を得るために坐禅をするのではありません。ただ、そういうこともあるということを、受け入れられる幅があってもよいかなと思います。
(我こそ禅僧と思う方は、花を蹴飛ばすかもしれませんね。)
宇宙とぶっつづきのそれぞれの生命。今日も一日が過ぎました。今日も暑い一日でしたね。
熱中症にご注意ください。