9月3日(金)晴【韓国訪問記最終回 法界定印】(金輪寺の千仏画壁面の諸仏画)
今日も晴れて暑いです。しかし、今朝は、少し涼しい感じがあります。だんだんこの涼しさが長くなるでしょう。もうすぐ本当に秋になりますね。まだ暑いですが、日本の首相選びに政治家も熱くなっています。こんな事のために、政治家たちに税金から給料を払っているのでしょうか。
さて、今回の韓国の旅で、一つ参考になったことがあります。朝課の後、皆さんと坐禅をしたのですが、そのとき、法界定印をしないで両膝の上にしばらく両手を載せていることに気がつきました。
坐禅が終わってから、尋ねましたところ、必ずしもすぐに法界定印をしなくてよいし、坐禅中、もし疲れたら、法界定印を解いて両膝の上においてもよいのだ、と本覺法尼から教えてもらいました。
私も、確かにそれはよいと賛同します。いつも風月庵で坐禅をしますとき、私もときどき印を解いて、両膝に置いたりします。
ちょっとでも動くと、警策が回ってきてぴしりと叩かれるような坐禅には抵抗があります。
道元禅師も「仏の家に投げ入れて」坐禅をすることを説かれています。この言葉からはゆったりと坐禅にゆだねる雰囲気があります。
ところが、ちょっとでも動くと、びしっと警策が入ったり、「坐禅中動くんじゃない」と叱責が入るような坐禅指導はおかしいのではないかとさえ思っています。一糸乱れず雲水が坐禅するという光景は、すばらしいと思う人もいるでしょうが、どこか軍隊的でさえあります。本音と建て前の違う民族の坐禅という感じがあります。
そのままで坐る、坐りきるところには、やはり、「ゆったり」の空気が漂っています。かつて京都に安泰寺があり、内山興正老師が堂頭であった頃、摂心に参加しましたが、警策は無しでした。
警策の役目は、居眠りが襲ったとき、自ら警策を入れてもらったり、寝ていることに気がつかない雲水に気がつかせたりのお役でよいのではないかと思います。
先日NHKの「宗教の時間」で、安泰寺の渡部耕法老師の法嗣、藤田一照さんが、ユニークな坐禅指導をなさっていましたが、よく体をほぐしてからようやく坐禅に入るというやり方でした。無理矢理に坐禅の型にはめ込むのではない、それぞれが体を柔軟にしてから、楽に坐禅に入るというゆったり坐禅です。決して軟弱坐禅ではありません。ゆったりです。
印の話に戻りますが、去年『禅ZEN』という映画がありました。この中で、最後のシーンで道元禅師が法界定印をほどいて、両手のなかに仏様を抱くような印を組みました。これはおかしいのではないかと思いました。高橋伴明監督は私の大学時代の映画研究会の後輩ですので、遠慮無く申し入れをしました。道元禅師が、あのような印を結ぶはずがないと思ったのです。その意見は今でも変わりません。(『禅ZEN』をご覧になった方の中で、仏様を抱くような印に違和感を持った方はいたのではないでしょうか。)
しかし、今回の韓国旅行で、この考えは堅かったかもしれない、と思い返しています。映画のように、監督が考えたような印は結ばなかったかもしれませんが、長い坐禅修行中、法界定印以外の印は結んだかもしれません
柔軟な考えは大事だとも思います。このような姿勢は、坐禅のことだけではなく、全てのことにいえることではないかとあらためて思った次第です。

さて、映画など観ていて、後ろ姿がうつると、母はいつも「あ、終わりだよ、後ろ姿だから」と言います。この度の韓国訪問記も、ゆったりと散歩をする二人の尼僧さんの後ろ姿で終わりましょう。
今日も晴れて暑いです。しかし、今朝は、少し涼しい感じがあります。だんだんこの涼しさが長くなるでしょう。もうすぐ本当に秋になりますね。まだ暑いですが、日本の首相選びに政治家も熱くなっています。こんな事のために、政治家たちに税金から給料を払っているのでしょうか。
さて、今回の韓国の旅で、一つ参考になったことがあります。朝課の後、皆さんと坐禅をしたのですが、そのとき、法界定印をしないで両膝の上にしばらく両手を載せていることに気がつきました。
坐禅が終わってから、尋ねましたところ、必ずしもすぐに法界定印をしなくてよいし、坐禅中、もし疲れたら、法界定印を解いて両膝の上においてもよいのだ、と本覺法尼から教えてもらいました。
私も、確かにそれはよいと賛同します。いつも風月庵で坐禅をしますとき、私もときどき印を解いて、両膝に置いたりします。
ちょっとでも動くと、警策が回ってきてぴしりと叩かれるような坐禅には抵抗があります。
道元禅師も「仏の家に投げ入れて」坐禅をすることを説かれています。この言葉からはゆったりと坐禅にゆだねる雰囲気があります。
ところが、ちょっとでも動くと、びしっと警策が入ったり、「坐禅中動くんじゃない」と叱責が入るような坐禅指導はおかしいのではないかとさえ思っています。一糸乱れず雲水が坐禅するという光景は、すばらしいと思う人もいるでしょうが、どこか軍隊的でさえあります。本音と建て前の違う民族の坐禅という感じがあります。
そのままで坐る、坐りきるところには、やはり、「ゆったり」の空気が漂っています。かつて京都に安泰寺があり、内山興正老師が堂頭であった頃、摂心に参加しましたが、警策は無しでした。
警策の役目は、居眠りが襲ったとき、自ら警策を入れてもらったり、寝ていることに気がつかない雲水に気がつかせたりのお役でよいのではないかと思います。
先日NHKの「宗教の時間」で、安泰寺の渡部耕法老師の法嗣、藤田一照さんが、ユニークな坐禅指導をなさっていましたが、よく体をほぐしてからようやく坐禅に入るというやり方でした。無理矢理に坐禅の型にはめ込むのではない、それぞれが体を柔軟にしてから、楽に坐禅に入るというゆったり坐禅です。決して軟弱坐禅ではありません。ゆったりです。
印の話に戻りますが、去年『禅ZEN』という映画がありました。この中で、最後のシーンで道元禅師が法界定印をほどいて、両手のなかに仏様を抱くような印を組みました。これはおかしいのではないかと思いました。高橋伴明監督は私の大学時代の映画研究会の後輩ですので、遠慮無く申し入れをしました。道元禅師が、あのような印を結ぶはずがないと思ったのです。その意見は今でも変わりません。(『禅ZEN』をご覧になった方の中で、仏様を抱くような印に違和感を持った方はいたのではないでしょうか。)
しかし、今回の韓国旅行で、この考えは堅かったかもしれない、と思い返しています。映画のように、監督が考えたような印は結ばなかったかもしれませんが、長い坐禅修行中、法界定印以外の印は結んだかもしれません
柔軟な考えは大事だとも思います。このような姿勢は、坐禅のことだけではなく、全てのことにいえることではないかとあらためて思った次第です。

さて、映画など観ていて、後ろ姿がうつると、母はいつも「あ、終わりだよ、後ろ姿だから」と言います。この度の韓国訪問記も、ゆったりと散歩をする二人の尼僧さんの後ろ姿で終わりましょう。
