8月15日(月)晴暑いです 【閑】
昨日棚経に伺った家で、李白の話が出ました。李白の漢詩が大好きなのだそうです。「山中問答」の話もでました。
話をしながら思い至ったのですが、李白の詩の意味とは別にして「心自閑」は、心はもともとに閑なのだ、というふうに読めないだろうか、ということです。いつも揺れ動いているのは、揺れ動かされているのは、やはり心ですが、その心はもともとは閑なのだというふうに読んでみたいと思いました。本覚思想と指さされてしまう解釈かもしれませんが。
帰ってから、あらためて本師の本を開いてみました。「閑」という項目があり、そこに書かれている「閑」についての本師の言葉をかきぬいてみましょう。
★禅門では、この「閑」という文字をひじょうに大切にしています。(中略)禅門では真実の道理ということになるのであります。
★人は三十年、五十年、八十年の生涯を生きるが、また三つで死ぬこともある。(中略)同じ天地のいのちなのですから、人間の尺度を外せば同じ尊さがあるのです。阿弥陀様の方から見れば長短を超えた同じ姿なのです。そこのところが閑の世界なのです。
★閑というのは、宗教的風光が手に入った人の風光なのです。
以上の三箇所は長い文章から、直接、閑について書かれているところを取りあげただけですが、閑について書かれた全文を通して、本師が表現なさりたいのは、宗教の風光であろうと思いいたります。本師が伝えたかったことは、「宗教の風光」であろうと思い、私が編集させて頂いた本の題を『宗教の風光』としたわけです。
先日も宗教の風光とは、なんですか、と質問されましたが、稿をあらためて、考えてみたいと思いますが、宗教の風光は、実は悟った本師だからお使いになれた表現であったと、あらためて思います。それを悟ってもいない私が解説をすることは、かなり無謀な試みでしょうが、日を改めて、考えてみたいと思います。
「雲は嶺頭に在って閑不徹」もよく本師がお使いになった偈頌ですが、嶺頭に悠々たる雲が浮かんでいる光景が目に浮かびます。「水は澗下を流れて太忙生」と対句になっています。どなたの偈頌だったでしょうか。また調べておきます。*『明覚禅師語録』にありますので、おそらく雪竇重顯禅師の頌古でしょう。その後多くの禅者が使っています。多くの禅者が使っていますと、たまたま目にしたその禅者の語としてしまうことがありますが、一番年代的に古い人が、作者でしょう。
よくよく味わってみれば、「閑」は悟りの語でしょう。