8月18日(木)晴暑し 【宗教の風光(一)二見にわたらぬ世界の安心】
本師の言われる「宗教の風光」は、さとった本師にしてお使いになることができる表現だろうと思います。そこで、宗教の風光とは、を解説するには、本師がどのようにお使いであったかをご紹介するのが、適切だろうと思いますので、本師の著作から引用したいと思います。
「ものの存在価値はそのものがきれいだとか役に立つとかそういうことではない、そのものがそこにあるということが存在価値の根本である。三歳のいのち、八十歳のいのち、それは三歳の仏性であり八十歳の仏性である。世間相場では八十歳のいのちが価値あるものとされる。されどそれぞれの価値である。このところにきて人は初めて安らえる。宗教の風光では 努力はいらぬ。放ち去ることである。人間の尺度を放ち去って白雲万里の外へやることである。そういう世界を柳緑花紅という。それはそれということであり、『信心銘』の「至道無難 唯嫌揀択」とされるところである。是と非と、美と醜と揀(えら)ぶところがなければ、取捨ということはないだろう。
「三世諸仏有ることを知らず 狸奴白牯却って有ることを知る」という南泉和尚の語といわれる表詮がある。道元禅師が建仁寺に栄西禅師を尋ねられたときの答話とされる。この答話によって道元禅師は衣を禅家に替えたのである。どのように受けとるべきか。三世諸仏といわれる優れた人々は、「有ることを知らず」不知の世界の到っている。不知とは「不知最も親し」といわれるように、二見にわたらぬ世界に到り得ているというのである。狸奴白牯といわれるような類は、「有ることを知る」、知っているのである。見ているのである。相手と自分と二見が立っているというのである。
以上がだいたい伝承されている受けとり方である。もっとほかに受けとり方はないものか。三世諸仏という優れた存在と、狸奴白牯というくだらぬ存在という二つのものあり方を否定した世界というものを考えられないのであろうか。衆生と仏という対立をあたりまえに思っている。『一心戒文』(達磨大師の作という)の中に第十不謗三宝戒の説明に「一如法界において、生仏の二見を生ぜざるを不謗三宝戒と名づく」とある。衆生と仏の二見をもたぬときに不謗三宝戒が保てるという。人間の尺度を超えたところに戒法の生き生きとしたすがたがげんじている。
枠の中にあって、浄不浄があり、聖と凡があり、いろいろとあることであるが、煎じつめてみると浄に著するを不浄ということになるであろうか。
伝えられた型の中にあって安心しているすがたをよく見かける。それは一種の精神的怠慢でもある。宗教の風光は人間的思考の外にあるもののようである。
(『宗教の風光』9~10頁、中山書房仏書林、平成12年9月ーまだ数冊は中山書房にあるかもしれません)