3月18日(水)晴れ、暖か 【老々介護記 随処に主となる】
今日はすごく暖かいですね。寝てばかりいる母をなんとか起こしまして、外の散歩ができるほどでした。以前は15分きっちりと自分で計って、植木の周りを歩いていたのですが、本日は三廻りだけしてくれました。二廻りで「もう疲れた」と言ったのですが、少し深呼吸をしてもらって、もう一度廻ってもらいました。
今は看護師さんが訪問してくれて、お通じの助けをしてくれています。高齢になると腸の動きが鈍くなりやすいようで、いつも大の問題が大問題なのです。特に母は五十年以上便秘に苦しんでいて、ほとんどのお金を便秘の解消に使い切ってきたのではないかと思うほどです。私もいろいろとあれがよいこれがよいと努力してみましたが、あまりこれぞというほどの手伝いはできていません。
母の問題は栄養補助食品を飲みすぎるのではないかと思うのです。カプセル入りの補助食品が多いですし、食事よりも栄養補助食品を食べているに近いとり方をしています。やめた方がよいと言っても聞き入れませんので、諦めていました。
しかし、この頃介護保険のお世話になって、看護師を頼みましたら、看護師さんたちが実に見事にお通じを出してくれます。こんなことならもっと早くに頼めばよかったと思うほどです。
母を見ていて、つくづく思いますが、人間最後は大、小便がスムージにでて、口からの食事ができさえすれば、それで十分だと思います。
母は、つい最近まで、あれが欲しいこれが欲しい、こうしたい、ああしたい、という欲があったのですが、この頃は何をしたいという気が全くなくなって、ベッドに横たわるようになってしまいました。
同時期に、これから新しい道に入っていく若い女性をしばらくお寺に預かって、得度式までを勤めさせてもらいましたが、老いて枯れていく女性と、未知の世界に飛び込んでいく若い女性の間にあって、学ぶことが多かったです。
なぜか、臨済義玄の「随処に主と作る」という言葉を思い出します。「どんなときにも、どんなところでも、主体性をもって事にあたれ」というような意味になるでしょうか。毎朝自分に向かって「主人公はおるか」と言った和尚さんがいたという話をよく本師から聞かされましたが、まことに生きる指針となる臨済の言葉だと痛感します。
この言葉の意味を、どこででも主人公になって、他人より抜きんでなくてはならないのか、と勘違いしないようにしなくてはなりませんが、賢明なご訪問の皆さんにはいらない説明とは思いますが、念のため。
臨済の言葉をもう少し紹介しますと「随処に主と作れば、立処皆な真なり」ということで、「いかなる場でも、自らの主体性を持って生きれば、どのような場でも真実を生ききることができるのである」と私は訳しておきます。
若い女性に送る言葉でもあり、母にも送りたい言葉であり、なにより私自身に送りたい言葉である。母の意に反して、あちこちにウンチがたれてしまっていましたが、それを拭くことが私の仕事として、これからも多くなることでしょう。