12月9日晴れ【誕生日】
昨日は、私の誕生日でした。12月8日、この日を耳にして、あなたは何を連想なさいますか。
出家する前は、ほとんどの方に「真珠湾攻撃の日なんですね」と、言われていました。
出家後は、「え!お釈迦様のお悟りの日なんですね」と言われるようになりました。
やはり後者のほうが嬉しいですね。ところで「お悟り」とはどのようなことなのでしょうか。
お悟りとは、これこれこういうことである、と書かれた語録や史伝にまだ不勉強でであったことがありません。それどころか、ほとんどの老師方は、「悟りなんてないよ」とおっしゃいます。
勿論、神通力を得るような事とは違う、ということくらいは、私にもわかります。しかし、道元禅師様は「悟り有り」と仰っています。私はそれを信じています。「悟りはない」と言うようになってから、修行者が怠け者になったような気もしますし、求道の心も弱まったような気がします。
馬祖道一禅師のころ、門下の修行者たちが、「即心是仏」、「仏」になりたいと執着するほど修行していました。万法は皆心から生じているのであって、心は万法の根本である。万法の根本とは仏に他ならない、というように訳しておきたいと思いますが、あまりに「仏」になろうとして、弟子たちが修行するのを見て、馬祖はついに「即心即仏」ではなく、「非心非仏」と説くようになりました。
真面目な修行者たちほど「悟り、悟り」と悟り病に罹っていますので、老師の方々も「悟りなどない」と言うことになってしまったのかもしれません。
そのような傾向が、私は現代の修行者たちが、修行の目的がわからなくなってしまったのではないかと思うのです。
「生をあきらめ死をあきらむるは仏家一大事の因縁なり」と道元禅師様は仰っています。一大事因縁とは、「悟りを開くきっかけ」のことです。ここは『修証義』の冒頭に使われています。この一文を参究することは、一生をかけて修行しつつ参究していくことと私はとらえています。
さて、かたちだけ頭を丸めていても、道を求めるよりも、より良い生活をもとめているような若者、さらに全く礼儀も知らず、陰でごねているような若者に出会い、残念なことだと思っています。若者には、どんな困難にあっても生き生きと清々しく生きてもらいたいと思います。それが、道を開く鍵なのだということを知ってほしいです。「ノー」と言われた場合、「ノー」の意味があります。道心を持っているならば、いかにノーと言われても恐れることはありません。潔く次の道を歩めばよいのです。黙々と、誠実に。
執着して生きていく生き方には、道は開くどころではなく、どの扉も閉じてしまうでしょう。お釈迦様も、道元禅師も、何のために出家したのか、と問いかけたいことだろうと思います。勿論私自身も常に自分に問いかけています。潔く生きてきたつもりです。他人もそうだろうと思ったことは間違いでした。
お釈迦様の成道の日に生まれたことはまことに勿体ないことですが、少しでもあやかった生き方をしようと改めて心に誓った誕生日でした。
話はかわりますが、寒くなりました。皆様風邪にはお気をつけてください。