2月9日(火)晴れ【坐禅について】
もうはや2月です。信じられますか。それももう、9日です。信じられませんね。工事も始まり、一日がなんとなくあっという間に閉じてしまうという感じの日送りをしています。本堂に見事な足場もかかりました。まだ足場作業は続きそうです。なんといっても足場は命がかかっていますから、基礎中の基礎、要ですね。
なかなか読書をする気力が出ない日々なのですが、私は、朝はたとえ短時間でも坐禅をすることを日課としています。坐禅の時間を持たせていただくのは、なかなか大変でして、僧堂修行中に、いやという程、坐ることができたのはいかに幸いであったことか。
さて、今、『無限の世界観〈華厳〉』(角川文庫)を開きましたら、次のような鎌田茂雄先生の言葉がありました。因みに私は鎌田先生とはお会いする機会がありませんでしたが、韓国の友人、陳本覺法尼は『華厳経』の研究で博士号を取得していまして、面識があったと伺ったことがあります。
只管打坐というと、ただすわれ、悟りを求めちゃいけない、というわけです。ただすわっていれば、いろんな雑念が次から次に浮かんでく る。それをほうっておけというのです。それの根拠をどこに求めるかというと、仏の坐禅であるということになるのです。衆生の坐禅だったら、これは悟りを開く坐禅で見性しなきゃいかん。ところが人間は人間であればいいんで、迷いが順番に浮かんでくるということが、人間のほんとうの人間らしさであるということです。道元の教えというのは、それはそれであるということなんです。(247頁)
自分が坐禅をしている、ととらえない、仏の坐禅をしている、坐禅は仏の坐禅なのである、ということになりましょう。華厳の教えの特質は、「仏の命の光明に貫かれている」という「性起説」ですから、鎌田先生曰く「道元の宗教の根底の背景は(性起品の教えがなければ)成り立たない」ととらえています。
これを受け取り間違えると、本覚思想となり、精進しないでよいのだ、坐禅もしないでよいのだ、と間違った方向にいってしまうのでしょう。
坐禅をする私は凡夫ですが、坐禅は仏の坐禅です。坐禅をすることによって、即仏の光明に抱かれ、仏の光明の只中なのである、といってもよいのではないでしょうか。
あらためて華厳の教えの本の中から、坐禅について考えてみました。
寒暖の差が激しいこの頃です。くれぐれも部屋の換気や、乾燥にはお気をつけください。加湿の水入れは面倒ですが、あまりに乾燥しすぎですから、お部屋に適度な湿気はコロナ対策としても大事です。皆様、御身お大事に。