2月16日(火)晴れ 暖か【明恵上人の法界定印】
昨日は涅槃会でした。お釈迦様が涅槃に入られた日、ということになっています。
さて、明恵上人の縄床樹座禅像(髙山寺蔵)という座像は有名ですが、それが印刷されたページを見ていまして、あらっと気が付いたことがあります。法界定印は、今、私たちは右手が下ですが、明恵上人は左手を下にしています。明恵上人は承安3年(1173年)のお生まれで、寛喜4年(1232)にご遷化していますから、道元禅師よりは年上です。
前にも書きましたが、法然上人批判の書として、『摧邪輪』という書を著しています。駒澤大学時代に学びましたが、どうもその時は不消化でした。不勉強を今では残念に思っています。明恵上人の晩年の頃は、道元禅師は宋から帰国なさっていて(1227年)、建仁寺から深草の安養院に閑居なさったのが、1231年です。お会いしていたのではないでしょうか、と、戒を守り、仏道一筋のこのお二人が京都でお会いなさった、と思いたいですが、そのような証拠はありません。
次にコメントをくださいましたtenjin和尚さまからのコメントを貼り付けさせていただきました。
*失礼いたします。 (tenjin95)2021-02-17 09:13:22> 管理人様
御指摘の通りで、我々の法界定印とは逆なんですね。明恵上人は、南北朝期くらいまでに成立した伝記だと、栄西禅師との関わりが指摘されていますが、実際の禅学は、著作によるものだったと思います。
インド由来の経典では、「右手で左手を押さえる」という語句が見えますので、それに従った可能性もあります。或いは、仏像・仏画は基本、右手が上なので、絵像の作家がそれに準じた可能性など、いくつか考えられます。
中国で左手上位の作法になり、そのことをインドから来た仏陀波利と中国僧が議論(『修禅要訣』)しましたが、仏陀波利は中国で勝手に変えた、というようなことを指摘していますね。
話は全く違いますが、明恵上人のお名前は、どこかの首相の奥さんの文字と同じですね。
さて、左手下の法界定印の座像を、紹介しておきます。