11月4日(木)晴れ【聖徳太子考(2)四天王寺建立】
仏教の伝来は、宣化天皇3年(538)または欽明天皇13年(552)または欽明天皇7年(546)説がありますが、538説が有力でしょうか。私も試験の為に(ごみや)と覚えました。百済の聖明王が、お釈迦様の仏像と経論若干巻を使臣を遣わせて献じてきたのが、日本の仏教伝来の最初とされています。天皇は、仏像を礼すべきかどうかを重臣たちに諮ったところ蘇我稲目大臣(そがのいなめおおおみ)は礼すべしと、物部尾輿大連(もののべのおこしおおむらじ)は礼すべからず、と答えられたそうで、蘇我氏は崇仏派、物部氏は拝仏派に二派にわかれることになりました。もともと権勢きそっていたのですが、稲目の子馬子、尾輿の子守屋に至って、闘争が頂点に達します。この時の天皇は敏達天皇です。
聖徳太子がお生まれになったのは、まさに蘇我氏と物部氏の争いが顕著な敏達天皇3年(574)1月1日になります。父は橘豊日皇子(たちばなのとよひのみこ)、母は穴穂部間人皇女(あなほべのはしひとのひめみこ)です。皇子の母は蘇我稲目の娘、皇女の母も稲目の娘で、欽明天皇が父になります。つまり聖徳太子は欽明天皇を父とする異母兄妹の子になります。かなり濃い血族結婚になります。当然崇仏派の蘇我氏側のほうと縁が深いわけです。
敏達天皇の時代に、物部守屋は仏像を壊したり、堂塔を破壊したり、僧尼に乱暴を働きました。日本で最初の出家者は尼僧ですが、敏達天皇13年(584)に、司馬達等(しばたっと)の娘、善信尼が高麗の僧のもとで出家受戒しています。他に禅蔵尼と恵善尼の二人がいまして、この三人は、物部守屋等によって三衣(さんえ)を剥奪され、鞭の刑を受けたり、市中を引き回されたり等の迫害にあってます。(しかし善信尼等の仏教信仰の念は固く、復権の後に百済に渡航、具足戒を受けて正式の大僧(だいそう)になっています。よって歴史的には尼僧が日本における最初の出家僧になります。)
一方、崇仏派の蘇我氏はその逆で、仏像を尊崇し、堂塔を造営し、僧尼を優遇しています。
第30代の敏達天皇が崩御しますと、弟の橘豊日皇子が31代天皇用明天皇になります。つまり聖徳太子の父親が天皇になりました。しかし用明天皇はわずか在位2年で崩御してしまいます。それが4月です。その後の皇位争いが起こり、蘇我氏と物部氏の熾烈な争いとなります。次に崇峻天皇が皇位につくのは8月ですから、この間に皇位を巡って死闘の戦いが行われたことになります。(と、私は推測しているのですが、歴史についての学びが十分でないので、この断定的な表現は間違っていましたらお許しを。)
蘇我馬子側は諸皇子と群臣、つまり朝議は物部討伐となりますが、物部守屋側は大伴氏等諸豪族を随えて、こちらのほうが強かったようです。蘇我側はひ弱な皇子たちのようです。この中に聖徳太子も加わっていました。しかし、用明天皇2年(587)は、太子は数え年14才の少年です。幼少時から聡明で仏教も学んでいましたし、太子は争いは好みませんでした。
軍の後ろに随っていて、四天王の像を作って、願と誓いをたてていたと『日本書記』に書かれています。
「今若し我をして敵に勝たしめたまはば、必ず護世四天王の奉為に寺塔を起立せん」とのたもうた、と記載されています。(これが四天王寺縁起になります。)
ですから軍神と後世祀られたこともあるようですが、太子は決して実際に戦ってはいませんし、軍神とするには不適ですし、軍神とされることを太子は好まないでしょう。
『書記』「崇峻紀」には蘇我馬子軍(皇子等の軍と群臣の衆)は「怯弱(よわく)くして恐怖れて、三廻却還(しりぞ)く」とありますから、あやうく負けそうになりますが、迹見首赤檮(とみのおびといちい)という者が守屋を射殺し、さらにその子等も誅殺されてしまいましたので、形勢は逆転、蘇我側の大勝利となり、皇位は太子の叔父泊瀬部(はつせべ)皇子がつき第32代崇峻天皇となったのです。
乱が落ち着いてから、摂津の国、かつて物部の別宅があった場所に四天王寺が造られ、守屋や一族郎党の霊を弔ったであろうと、言われている。しかし、この説には異説もあります。それから、変遷を経て、現在の地(大阪市天王寺区)に四天王寺は建立されています。現在のお寺の造りを想像してしまうかもしれませんが、太子の時代は、茅葺の木造であり、決して、いまのような伽藍ではありません。
推古天皇元年(593)、太子20才で推古天皇の摂政になった年に、四天王寺は現在の地に移されたのです。
以上、「聖徳太子考(2)」は四天王寺の建立までの記事とします。
*なお聖徳太子のお名前については、また後に書くかもしれませんが、はじめから聖徳太子と呼ばれたわけではありません。