5月1日(月)晴れ暑し【教育を考えるその2-可愛い子に親殺しをさせないために】
その1において「教育に関しての私論」などと題打ったが、いきがりすぎているような題なので、上記のように変えた。子どもを育てていない私が教育について語るのも、おこがましいのであるが、子どもが親を殺そうなどいう事件を見過ごすことはできない。そんなことをしでかすような子どもにしないためには、どうしたらよいか、みんなで智恵をだしあって考えてはどうかと思うからである。
今日は毒薬タリウムを母親に飲ませた少女(17)が、医療少年院に送致された。はじめ少女は母親に毒を飲ませたことを否定していたようであるが、父親に説得されて自供したそうである。母親(48)はまだ意識を回復していないようだ。
なぜ、なぜ、胎児のときから育ててくれた母親に毒を飲ませることなどできたのであろうか。はじめタリウムの効果を知りたかったというが、その後発覚を恐れて殺害しようとして更にタリウムを飲ませたという。少女は進学校としても優秀な県立の高校生であったという。少女がいじめにあったことなどが、少女の歪んだ性格を形成したのではないかともいわれるが、そればかりであろうか。少女が幼児からどのように育てられたか、その成育歴というものを是非、社会として知りたいものである。
藤原智美氏の『なぜ、その子供は腕のない絵を描いたか』の中に、非常に示唆に富んだ事例が紹介されている。それを要約してみる。「第4章「親心」が子どもの力を奪うという悲劇」〈燃えつきる子どもたち〉の箇所に書かれている。
或る少女、仮にRとする。Rはなんと0歳児から幼児教育をうけさせられ、英会話やピアノ、バレエなど、ほとんど毎日教室がよい。五歳にして小学校で学ぶ漢字と英会話さえ、ある程度できるようになったそうである。小学校は国立大付嘱、中学は難関中の難関校に進むが、高校に入ってから、ついに、精神に変調をきたすようになった。妹の首を絞めたり、大暴れをするようになってしまうのである。
精神病院に入れられたのであるが、医師や親に悪態をつく言葉の暴力はすさまじいものである。医師に対しては省略するが、母親に対しての言葉は、考えさせられるので、そのまま引用してみる。
「無力な子どもを自分の『人工生命みたいにしやがって、その人工生命が壊れたら、さっさと精神病院に送り込みやがって。その『反省』とやらを地獄の底に下りても続けなけれりゃいけないのは、この壊れた人工生命を産み、そして育てたアンタ(母親)だよ。」(『なぜ、その子供は腕のない絵を描いたか』123頁)
Rは自らを人工生命と表現している。Rはけっきょく自殺してしまったそうである。医師は原因をつきとめられなかったそうであるが、0歳から知識を詰め込まれて、神経が壊れてしまったのではなかろうか。医師は「燃えつきた」としか考えられない、と言っているそうである。
0歳から無理矢理知識を詰め込まれては、脳の自然な発達が狂わされるのではなかろうか。
芸術的なことは多少幼いうちからでもよいかもしれないが、日本ではお稽古事は6歳6ヶ月からと言われているのである。先人の知恵だと思う。あまり早すぎては、幼児の心身の発達にとって、ストレスが強すぎるのではなかろうか。
少女Rの実例は、タリウム事件の少女の成育歴に照らしていかがであろう。母親に毒を盛るなどという事件がなぜ起きたのか。人権についての配慮を十分にした上でではあるが、少女の成育歴をある程度、社会に公表していただけると、社会に対してのなんらかの警鐘を鳴らすことができるのではなかろうか。
タリウム事件がRの事例と、似ているところはあるのか分からないが、知識の詰め込みは子どもには敵である。とくに幼児にとって。とにかく小学生ぐらいは遊ぶことが、仕事にも等しいことだとの認識が大事である。私も小学校時代はほとんど勉強した記憶がない。石蹴りやゴムダン遊び、薪採りや芹積み等等、いくらでも身体を動かして野山を駆け回って遊ぶことがあった。親に「勉強しなさい」などと一度も言われたことはない。私の子ども時代は幸運な時代であった。
それでも、遊んでばかりでもない。授業はよく聞いていた。それからそろばん塾だけは通った。日曜を除く毎日、小学校4年と5年の二年間通い続けた。村の子どもたちはほとんどこのそろばん塾に通っていた。一年間も通えば、珠算の三級はほとんどの子どもが合格した。二級からは暗算が加わるが、これがまた脳によい刺激になったのではなかろうか。
百ます計算やドリルとは多少効果は違うかもしれないが、毎日頭にそろばんを浮かべて暗算で乗除加減の訓練をさせてもらったことは、脳の訓練としてよかったと感謝している。教えてくれた先生は大熊先生という人であった。今でもそのお顔を思い出すことができるほどだ。
今はN堂DSとかいうゲーム機で、頭の体操ができるソフトがあるそうだが、大人には良いかもしれないが、子どもには向かないと思う。子どもは自分の手で鉛筆を持ってじっくりと考えられる方法が最適であると考える。
少女Rほどに詰め込む必要はないが、小学生のうちから頭の回転の訓練はしておくことはよいかもしれない。単に成績の為ばかりではない。頭の回転運動は実生活でも役立つのではなかろうか。単に知識を詰め込むこととはおおいに相異がある。
子どもが可愛いと思う親は、知識を詰め込ませすぎて、子どもの頭を狂わさないようにしよう。壊さないようにしよう。
柳沢桂子さんの本に、チンパンジーやゴリラのような類人猿からヒトに進化するものがでてくるのは五百万年前、現在の私たちと同じ種に属するヒトがこの地球上に生まれてから約二十万年と紹介されてあったが、気の遠くなるほどの昔から引き継がれている命を考えたなら、子どもに無理矢理勉強させようなどという考えは馬鹿馬鹿しくなりはしないだろうか。可愛い子には、知識を無理矢理詰め込むような、味のない子育ては断じてやめよう!
その1において「教育に関しての私論」などと題打ったが、いきがりすぎているような題なので、上記のように変えた。子どもを育てていない私が教育について語るのも、おこがましいのであるが、子どもが親を殺そうなどいう事件を見過ごすことはできない。そんなことをしでかすような子どもにしないためには、どうしたらよいか、みんなで智恵をだしあって考えてはどうかと思うからである。
今日は毒薬タリウムを母親に飲ませた少女(17)が、医療少年院に送致された。はじめ少女は母親に毒を飲ませたことを否定していたようであるが、父親に説得されて自供したそうである。母親(48)はまだ意識を回復していないようだ。
なぜ、なぜ、胎児のときから育ててくれた母親に毒を飲ませることなどできたのであろうか。はじめタリウムの効果を知りたかったというが、その後発覚を恐れて殺害しようとして更にタリウムを飲ませたという。少女は進学校としても優秀な県立の高校生であったという。少女がいじめにあったことなどが、少女の歪んだ性格を形成したのではないかともいわれるが、そればかりであろうか。少女が幼児からどのように育てられたか、その成育歴というものを是非、社会として知りたいものである。
藤原智美氏の『なぜ、その子供は腕のない絵を描いたか』の中に、非常に示唆に富んだ事例が紹介されている。それを要約してみる。「第4章「親心」が子どもの力を奪うという悲劇」〈燃えつきる子どもたち〉の箇所に書かれている。
或る少女、仮にRとする。Rはなんと0歳児から幼児教育をうけさせられ、英会話やピアノ、バレエなど、ほとんど毎日教室がよい。五歳にして小学校で学ぶ漢字と英会話さえ、ある程度できるようになったそうである。小学校は国立大付嘱、中学は難関中の難関校に進むが、高校に入ってから、ついに、精神に変調をきたすようになった。妹の首を絞めたり、大暴れをするようになってしまうのである。
精神病院に入れられたのであるが、医師や親に悪態をつく言葉の暴力はすさまじいものである。医師に対しては省略するが、母親に対しての言葉は、考えさせられるので、そのまま引用してみる。
「無力な子どもを自分の『人工生命みたいにしやがって、その人工生命が壊れたら、さっさと精神病院に送り込みやがって。その『反省』とやらを地獄の底に下りても続けなけれりゃいけないのは、この壊れた人工生命を産み、そして育てたアンタ(母親)だよ。」(『なぜ、その子供は腕のない絵を描いたか』123頁)
Rは自らを人工生命と表現している。Rはけっきょく自殺してしまったそうである。医師は原因をつきとめられなかったそうであるが、0歳から知識を詰め込まれて、神経が壊れてしまったのではなかろうか。医師は「燃えつきた」としか考えられない、と言っているそうである。
0歳から無理矢理知識を詰め込まれては、脳の自然な発達が狂わされるのではなかろうか。
芸術的なことは多少幼いうちからでもよいかもしれないが、日本ではお稽古事は6歳6ヶ月からと言われているのである。先人の知恵だと思う。あまり早すぎては、幼児の心身の発達にとって、ストレスが強すぎるのではなかろうか。
少女Rの実例は、タリウム事件の少女の成育歴に照らしていかがであろう。母親に毒を盛るなどという事件がなぜ起きたのか。人権についての配慮を十分にした上でではあるが、少女の成育歴をある程度、社会に公表していただけると、社会に対してのなんらかの警鐘を鳴らすことができるのではなかろうか。
タリウム事件がRの事例と、似ているところはあるのか分からないが、知識の詰め込みは子どもには敵である。とくに幼児にとって。とにかく小学生ぐらいは遊ぶことが、仕事にも等しいことだとの認識が大事である。私も小学校時代はほとんど勉強した記憶がない。石蹴りやゴムダン遊び、薪採りや芹積み等等、いくらでも身体を動かして野山を駆け回って遊ぶことがあった。親に「勉強しなさい」などと一度も言われたことはない。私の子ども時代は幸運な時代であった。
それでも、遊んでばかりでもない。授業はよく聞いていた。それからそろばん塾だけは通った。日曜を除く毎日、小学校4年と5年の二年間通い続けた。村の子どもたちはほとんどこのそろばん塾に通っていた。一年間も通えば、珠算の三級はほとんどの子どもが合格した。二級からは暗算が加わるが、これがまた脳によい刺激になったのではなかろうか。
百ます計算やドリルとは多少効果は違うかもしれないが、毎日頭にそろばんを浮かべて暗算で乗除加減の訓練をさせてもらったことは、脳の訓練としてよかったと感謝している。教えてくれた先生は大熊先生という人であった。今でもそのお顔を思い出すことができるほどだ。
今はN堂DSとかいうゲーム機で、頭の体操ができるソフトがあるそうだが、大人には良いかもしれないが、子どもには向かないと思う。子どもは自分の手で鉛筆を持ってじっくりと考えられる方法が最適であると考える。
少女Rほどに詰め込む必要はないが、小学生のうちから頭の回転の訓練はしておくことはよいかもしれない。単に成績の為ばかりではない。頭の回転運動は実生活でも役立つのではなかろうか。単に知識を詰め込むこととはおおいに相異がある。
子どもが可愛いと思う親は、知識を詰め込ませすぎて、子どもの頭を狂わさないようにしよう。壊さないようにしよう。
柳沢桂子さんの本に、チンパンジーやゴリラのような類人猿からヒトに進化するものがでてくるのは五百万年前、現在の私たちと同じ種に属するヒトがこの地球上に生まれてから約二十万年と紹介されてあったが、気の遠くなるほどの昔から引き継がれている命を考えたなら、子どもに無理矢理勉強させようなどという考えは馬鹿馬鹿しくなりはしないだろうか。可愛い子には、知識を無理矢理詰め込むような、味のない子育ては断じてやめよう!