2月26日(火)晴れ【『法華経』メモ「譬喩品」1】
「譬喩品」には、〈火宅の喩〉が説かれています。火の燃え盛る邸宅から、遊びに夢中になっている息子たちをなんとか救い出したいと願う、その家の主人は、方便を使って救い出すことを考えた。つまり羊車、鹿車、牛車の玩具で、宝もので見事に飾られた玩具を、この邸宅の外に置いたから、さあ、出てきてそれで遊びなさい、と告げたのです。
それを聞いた子どもたちは、喜び勇んで、外に出てきました。これで燃え盛る邸宅から出ることができたのです。子どもたちはお父さんに言いました。先ほどおっしゃった三種類の乗り物をください、と。
それに対して、与えられたのは、ただ一種類の大白牛車(だいびゃくごしゃ)です。真珠や宝珠で飾られ、黄金の花輪で飾られ等々、大変に立派な本物の乗り物でした。
三界において愛欲に執着して生きる子どもたちは、救い出そうとする親の言葉に耳を傾けないので、方便を用いて、救い出したのである、と説かれます。
汝、舎利弗よ「私は、それらの平等である息子たちのために直ちに、この最も勝れた譬喩によって、この[ただ]一つのブッダになる乗り物(一仏乗)を説くのである。あなたたちは[それを]受け入れるがよい。すべてが、勝利者[であるブッダ]となるであろう。」(植木雅俊訳)
と、ここでも、すべての人が、ブッダに成れることが説かれている。[そのブッダに到る乗り物には、]「無量億千の諸の力・解脱・禅定・智慧及び仏の余の法あり。(訓読の個所)
この個所ですが、解脱や禅定や智慧や多くの力は、大白牛車に乗って、修行の末に得られる状態であり、乗りさえすれば棚ぼた式に得られるものではない。やはり修行してのことです。この譬喩について、三車か四車、法論がなされてきましたが、牛車(菩薩乗)と大白牛車(一仏乗)が同じか別かの論争です。皆さん、ご承知の論争です。法相宗の基は三車家、天台智顗、光宅寺法雲、華厳の法蔵は四車家とされている、と辞典にありますが、植木先生の訳は、四車の方の解釈としてとらえてよいでしょうか。
この乗り物に乗って、いかにしてブッダに成りうるか、「譬喩品」においても「四聖諦」が説かれています。苦諦・集諦(じったい)・滅諦(めったい)・道諦(どうたい)の四諦です。
(恐れ多くも『法華経』に添える写真は、三匹の外猫ちゃんたちです。初めてこんなシーンを見ましたので。)
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