親会社のY.S氏が喉頭がんで手術をすることになった。
先月、声がかすれ、喉が痛み出したということで、近くの病院へ行って検査をしたらしい。
「これは当院では難しいから」と、新橋にある慈恵会医科大学病院を紹介されたそうだ。
早速その病院に行き精密検査する。そして奥さんともども検査の結果を聞きに行った。
診断は喉頭がんでレベル4の段階(レベル1.2が初期がん、3.4が進行がん、5が末期がん)
がん細胞が骨まで達しているので、喉頭を全摘しかないが、手術前の再検査でがんの
進行が遅いようであれば、声帯の一部を残せるかもしれないと言われたそうである。
どちらにしても早い方が良いと、その場で手術日程まで決めたそうだ。
喉頭がんは一般的に男性に多く、原因としてはタバコとアルコールとの関与が言われている。
彼は1日3箱のヘビースモーカーで、いつも酒の匂いが残るほどのヘビードリンカーでもある。
そんな彼の生活習慣からすると、「やはり」と思ってしまうのも致し方ないのかも知れない。
彼は59歳、仕事はデリバリーの仕事(受注した注文を何段階かの加工先に手配し、
商品が顧客に納めるまでの工程と納期管理)である。この仕事は顧客の要求通りに納品
して当たり前、納期遅れや商品クレームは彼の責任である。顧客からの無理な要求や
加工先のトラブルによる遅れは日常茶飯事である。彼はそんなストレスフルな仕事をもう
何十年とやっているのである。多分社内では一番ハードな仕事ではないだろうか。
彼は仕入先や得意先との電話が長くなると、終わるたびに席を立ってタバコを吸いに行く。
又1日の業務を終え家路に着くとき、自動販売機で冬はカップ酒、夏は缶ビールを買って
飲みながら駅まで帰るのが常であった。そんな日常を見るにつけ、彼にとって煙草やお酒は
「息抜き」や「楽しみ」ではなく、ストレス解消のための手段になっていたように思えてしまう。
そんな習慣が何十年も続き、次第に量を増して止められないものになっていったのだろう。
彼の頭は真っ白で10歳は歳取って見えてしまう。体重は50kgを割って、いかにもか細い。
糖尿病による脱水症状からか、1日2リットル入のペットボトルの水を2本以上は飲んでいる。
会社の健康診断で「再検査を要す」の判定が書かれていても、決して再検査には行かない。
再検査に行けば「即入院」と言われるのが分かっているから、と本人は笑って言っていた。
彼は自分の健康状態は充分に認識していたわけである。しかしその現実から眼をそらせ
改善しようとはしなかった。その結果、いよいよ逃げられないところまで来てしまった訳である。
人が自分の習慣を変えることは非常に難しいことのように思える。変えることでの苦労や
苦しみ(禁断症状)をともなうために、なかなか思いきれないし、継続することが難しい。
私もタバコは19歳の時から吸っていた。20年以上も吸っていたが、ある時止める決心をし、
実行に移した。禁断症状が何日も続き、いつもイライラとしていた。それでも我慢していて
2~3ヶ月してやっと楽になる。しかしそれでも人が吸っていると思わず「1本貰って良い?」
と手が出てしまいそうな衝動に駆られたことは1度や2度ではなかった。
禁煙して2年で再び喫煙することになってしまう。夏のある日、八ヶ岳高原ロッジへ遊びに
行った時のこと、そのロッジの喫茶室から、広々とした芝生の向うに八ヶ岳の山並が見えた。
「こんなシュチュエーションで煙草を吸ったらどんなに美味しいだろう」、その時ふとそう思った。
そう思ったらもう止めることができない。「1本だけなら」そう思って煙草を買って吸ってしまう。
1本が2本になり3本吸ってから、残りを箱のまま捨てた。しかし一旦吸ってしまった煙草は
取り返しがつかず、再び吸うようになったのである。私はお酒はあまり好きではないから、
自己コントロールは効くが、タバコはどうしてもコントロールできなかったのである。
その後も止めなければという意識は常にあった。しかし前の挫折があって思いきれなかった。
再び煙草を止めたのは10年前のことである。その間は1日30本以上は吸っていたであろう。
2000年の1月、母が大腸がんになって入院した。手術はしたものの肝臓に転移していて、
回復する可能性はなかった。次第に衰える母、入院を嫌い母は自宅に帰ることを切望する。
不憫に思った父は、死ぬ時は自宅でと思い、母を退院させ自宅で看病することになった。
私は入院以来、毎月のように車を運転して、新潟へ見舞に行っていた。
その年の9月に見舞に行った時、もうあまり長くないだろうと思うほど衰弱がひどくなっていた。
寝室に横たわる母、私はその前に座り母と向かい合う。どろんとした目で私を見ていた母が
「タバコを1本頂戴よ」とやせ細った手を私の方に差し出してきた。私はタバコに火を付けて、
人差し指と中指の間にタバコを挟んでやる。タバコを挟んだ手をゆっくりと口元に持って行き、
いかにも美味しそうにタバコを吸う。母がタバコを吸うようになったのは2~3年前からである。
私もタバコに火を付け、タバコを吹かす。その時、母が「あんた、タバコを止めなさい」と言う。
私は「もうこの歳で、健康に気を使うこともないだろう」と答える。母は私を見据え「馬鹿なことを
言いなさんな!まだ子供が学校なのよ。親として責任があるでしょう。止めるのよ、良いね!」
母は昔の口調で息子の私を叱った。母の手は震え指に挟まれたタバコの灰がポトリと落ちた。
それから1週間して、会社で仕事をしている時に、「母危篤」の連絡を受けとった。
気持ちを整理するため、表に出てタバコに火をつける。その時「この1本で止めよう」と思った。
その1本を吸ってから、残ったタバコとライターをごみ箱に捨てる。一つの切っ掛けである。
止めた後も以前と同じような禁断症状は出てくる。萎えそうになる気持ちを「これは母の
最後の言葉(遺言)だから、その遺言を破って良いのか?」と、自問自答する。
それが歯止めになって今も禁煙は続いている。人の気持ちとは弱くもろいものである。
だから継続させるには自己を制する動機付のようなものが必要なのかも知れない。
会社のY.S氏は「タバコは止めた方が良い、お酒は控えたらどうか?」と言われ続けていた。
しかし彼は「これは自分のこと、後悔はしないから」と誰に言われても止めようとはしなかった。
医者に結果を聞きに行った時「これから煙草を吸ったら、手術はしません」と言われたらしい。
彼もこれだけの大事になったわけである。今回の手術で結果的には声を失うかも知れない。
しかしこの手術がタバコが命と引き換えを実感し、これを機にタバコも酒も止められるだろう。
そして、その後節制して健康を取り戻していけば「不幸中の幸い」になるかもしれない。
来週1月18日に入院し、手術日は20日、術後は2週間の入院予定だそうである。
今、彼は不安な気持ちでいっぱいであろう。それを隠すように平然とした感じを装い仕事の
引き継ぎをしている。ぼそぼそとして聞き取り辛いかすれた声が後ろの席から聞こえてくる。
それを聞いていると、痛々しくいたたまれない気持になってしまう。今は手術がうまくいき、
再び社会復帰ができることを願うばかりである。
先月、声がかすれ、喉が痛み出したということで、近くの病院へ行って検査をしたらしい。
「これは当院では難しいから」と、新橋にある慈恵会医科大学病院を紹介されたそうだ。
早速その病院に行き精密検査する。そして奥さんともども検査の結果を聞きに行った。
診断は喉頭がんでレベル4の段階(レベル1.2が初期がん、3.4が進行がん、5が末期がん)
がん細胞が骨まで達しているので、喉頭を全摘しかないが、手術前の再検査でがんの
進行が遅いようであれば、声帯の一部を残せるかもしれないと言われたそうである。
どちらにしても早い方が良いと、その場で手術日程まで決めたそうだ。
喉頭がんは一般的に男性に多く、原因としてはタバコとアルコールとの関与が言われている。
彼は1日3箱のヘビースモーカーで、いつも酒の匂いが残るほどのヘビードリンカーでもある。
そんな彼の生活習慣からすると、「やはり」と思ってしまうのも致し方ないのかも知れない。
彼は59歳、仕事はデリバリーの仕事(受注した注文を何段階かの加工先に手配し、
商品が顧客に納めるまでの工程と納期管理)である。この仕事は顧客の要求通りに納品
して当たり前、納期遅れや商品クレームは彼の責任である。顧客からの無理な要求や
加工先のトラブルによる遅れは日常茶飯事である。彼はそんなストレスフルな仕事をもう
何十年とやっているのである。多分社内では一番ハードな仕事ではないだろうか。
彼は仕入先や得意先との電話が長くなると、終わるたびに席を立ってタバコを吸いに行く。
又1日の業務を終え家路に着くとき、自動販売機で冬はカップ酒、夏は缶ビールを買って
飲みながら駅まで帰るのが常であった。そんな日常を見るにつけ、彼にとって煙草やお酒は
「息抜き」や「楽しみ」ではなく、ストレス解消のための手段になっていたように思えてしまう。
そんな習慣が何十年も続き、次第に量を増して止められないものになっていったのだろう。
彼の頭は真っ白で10歳は歳取って見えてしまう。体重は50kgを割って、いかにもか細い。
糖尿病による脱水症状からか、1日2リットル入のペットボトルの水を2本以上は飲んでいる。
会社の健康診断で「再検査を要す」の判定が書かれていても、決して再検査には行かない。
再検査に行けば「即入院」と言われるのが分かっているから、と本人は笑って言っていた。
彼は自分の健康状態は充分に認識していたわけである。しかしその現実から眼をそらせ
改善しようとはしなかった。その結果、いよいよ逃げられないところまで来てしまった訳である。
人が自分の習慣を変えることは非常に難しいことのように思える。変えることでの苦労や
苦しみ(禁断症状)をともなうために、なかなか思いきれないし、継続することが難しい。
私もタバコは19歳の時から吸っていた。20年以上も吸っていたが、ある時止める決心をし、
実行に移した。禁断症状が何日も続き、いつもイライラとしていた。それでも我慢していて
2~3ヶ月してやっと楽になる。しかしそれでも人が吸っていると思わず「1本貰って良い?」
と手が出てしまいそうな衝動に駆られたことは1度や2度ではなかった。
禁煙して2年で再び喫煙することになってしまう。夏のある日、八ヶ岳高原ロッジへ遊びに
行った時のこと、そのロッジの喫茶室から、広々とした芝生の向うに八ヶ岳の山並が見えた。
「こんなシュチュエーションで煙草を吸ったらどんなに美味しいだろう」、その時ふとそう思った。
そう思ったらもう止めることができない。「1本だけなら」そう思って煙草を買って吸ってしまう。
1本が2本になり3本吸ってから、残りを箱のまま捨てた。しかし一旦吸ってしまった煙草は
取り返しがつかず、再び吸うようになったのである。私はお酒はあまり好きではないから、
自己コントロールは効くが、タバコはどうしてもコントロールできなかったのである。
その後も止めなければという意識は常にあった。しかし前の挫折があって思いきれなかった。
再び煙草を止めたのは10年前のことである。その間は1日30本以上は吸っていたであろう。
2000年の1月、母が大腸がんになって入院した。手術はしたものの肝臓に転移していて、
回復する可能性はなかった。次第に衰える母、入院を嫌い母は自宅に帰ることを切望する。
不憫に思った父は、死ぬ時は自宅でと思い、母を退院させ自宅で看病することになった。
私は入院以来、毎月のように車を運転して、新潟へ見舞に行っていた。
その年の9月に見舞に行った時、もうあまり長くないだろうと思うほど衰弱がひどくなっていた。
寝室に横たわる母、私はその前に座り母と向かい合う。どろんとした目で私を見ていた母が
「タバコを1本頂戴よ」とやせ細った手を私の方に差し出してきた。私はタバコに火を付けて、
人差し指と中指の間にタバコを挟んでやる。タバコを挟んだ手をゆっくりと口元に持って行き、
いかにも美味しそうにタバコを吸う。母がタバコを吸うようになったのは2~3年前からである。
私もタバコに火を付け、タバコを吹かす。その時、母が「あんた、タバコを止めなさい」と言う。
私は「もうこの歳で、健康に気を使うこともないだろう」と答える。母は私を見据え「馬鹿なことを
言いなさんな!まだ子供が学校なのよ。親として責任があるでしょう。止めるのよ、良いね!」
母は昔の口調で息子の私を叱った。母の手は震え指に挟まれたタバコの灰がポトリと落ちた。
それから1週間して、会社で仕事をしている時に、「母危篤」の連絡を受けとった。
気持ちを整理するため、表に出てタバコに火をつける。その時「この1本で止めよう」と思った。
その1本を吸ってから、残ったタバコとライターをごみ箱に捨てる。一つの切っ掛けである。
止めた後も以前と同じような禁断症状は出てくる。萎えそうになる気持ちを「これは母の
最後の言葉(遺言)だから、その遺言を破って良いのか?」と、自問自答する。
それが歯止めになって今も禁煙は続いている。人の気持ちとは弱くもろいものである。
だから継続させるには自己を制する動機付のようなものが必要なのかも知れない。
会社のY.S氏は「タバコは止めた方が良い、お酒は控えたらどうか?」と言われ続けていた。
しかし彼は「これは自分のこと、後悔はしないから」と誰に言われても止めようとはしなかった。
医者に結果を聞きに行った時「これから煙草を吸ったら、手術はしません」と言われたらしい。
彼もこれだけの大事になったわけである。今回の手術で結果的には声を失うかも知れない。
しかしこの手術がタバコが命と引き換えを実感し、これを機にタバコも酒も止められるだろう。
そして、その後節制して健康を取り戻していけば「不幸中の幸い」になるかもしれない。
来週1月18日に入院し、手術日は20日、術後は2週間の入院予定だそうである。
今、彼は不安な気持ちでいっぱいであろう。それを隠すように平然とした感じを装い仕事の
引き継ぎをしている。ぼそぼそとして聞き取り辛いかすれた声が後ろの席から聞こえてくる。
それを聞いていると、痛々しくいたたまれない気持になってしまう。今は手術がうまくいき、
再び社会復帰ができることを願うばかりである。