得意先からクレームの電話が入った。「あ~あっ」と、何とも言えない脱力感が全身を覆う。
当方が食品メーカーに供給したレトルト用の袋が破袋した(袋に穴が開く)というものである。
メーカーでは液状の商品をこの袋に充填し、レトルト(加圧加熱殺菌)をかけるのだが、
その工程で液漏れが出た。その現象が発覚した時点で製造ラインはストップし、まだ充填
されていない原料もラインから外されてしまう。これは生産マニュアル通りなのであろう。
早速事故があったロットの袋が送り返され、製袋工場で事故の原因調査が行われる。
原因は印刷したフィルムから袋にする時、印刷したフィルムをつなぎ合わせる場合がある。
つなぎ目はテープで止めて、それから連続して製袋を行っていく。当然繋ぎあわせた製品は
シール後に感知器が働いて取り除くのであるが、その前後の袋もシール温度にムラが出て
強度が落ちることがあるため安全策として、前後8枚の製品を除去するようなマニュアルに
なっている。しかし、今回はその感知器がうまく作動せず取り除くべき製品が除去されずに、
正規の製品中に混入してしまった。そしてその中の2枚から破袋が出たという事故である。
不良品の発生原因と今後の対策の報告書を持って、一昨日加工メーカーの技術者と一緒に、
謝罪と経過報告のために、お客様である食品メーカーの工場に行ってきた。
不良品の発生原因及び今後の対策は、お客様からは一応の了解は得られたものの、
当然、不良品が原因で発生した相手側の損害に対する保証の問題が発生する。
今回は製造途中でラインを止めたため、未処理原料の保証額が大きくなってくる。
(袋に充填前に冷凍品を解凍したため、冷凍し直して再度使うことができなかった)
まだ最終的な金額は算出されていないが、廃棄処分費等で総額100万円近くになるだろう。
基本的には製袋工場のミスであるため、加工会社の保険を使って処理をすることになる。
それにしても、たった2枚の不良品が100万円の損害を引き起こすことになってしまった。
数年前から、食品業界で色々な不祥事が発生し、新聞をにぎわすことが多くなっている。
産地偽装、表示違反、賞味期限改ざんなど、その内容に悪意があれば企業の存続まで
脅かされることになる。意図的なものでなく、不注意による場合でも、新聞の謝罪広告、
商品の撤去、相手先に対する補償等々、莫大な負担が発生して、そのリスクは大きい。
そんなことから企業はリスク回避の方法として、人の判断を入れない徹底したマニュアル
管理が施行されるようになった。作業時の服装、整理整頓、作業手順、品質管理など
工場内のあらゆることがマニュアル化され、徹底した管理下に置かれるようになったのである。
事故があればさらにマニュアルは強化され、鉄壁なマニュアルが作られていくようになった。
そんな風潮から、マニュアルが整備されていない会社は、遅れた会社、取引に不適な会社
と見なされ、疎外されていくように感じるほどである。
不確かなものは使わない、不安なものは出荷しない。そんな厳しさが徹底するようになり、
そこに妥協も温情も入らなくなっていく。そしてそのたゆまぬ改善が企業が競争力を付け、
商品に信頼感が増し、それを扱う側やそれを使う消費者にとっては安全安心が得られる。
しかし一方で社会全体の風潮が「マニュアル化」の傾向になっていくことにより、「人間味」
というものが無くなって行き、次第に殺伐とした世の中になって行くように思うのである。
「能率」「マニュアル」「標準化」、それは戦後の日本の産業にとっては必要不可欠なことで
あったろうと思う。しかし、多くの企業が競って効率化やマニュアル化を進めていった結果、
個性のない商品ができ、個性のない店が蔓延し、どこの店で買っても、どこの店で食べても
大差ないとう感じになってしまったのも確かなようである。
謝罪に行った工場に着いた時はちょうど昼休みの休憩時間であった。食後のひと時であろう、
工場のあちらこちらで日向ぼっこをして、ぼんやりと時間の来るのを待っている人々がいる。
来社を告げると、2階の会議室に案内された。その途中、広い食堂の脇を通り抜けていく。
そこでもポツリポツリと間隔をあけて人が座って、携帯の画面を見たり本を読んだりしている。
100人以上いるのに、この工場では人が集まっている様子がない、会話が聞こえてこない。
マニュアルにそって、ただ機械のように働いた午前中、その疲れを癒すひと時に人との会話は
反対に負担なのかもしれない。何となく「無機的な雰囲気」「笑顔のない職場」「喜びのない
仕事」そんなことを感じたのは外部から来た私だけかも知れない。
今、相変わらず「能率」「マニュアル」「標準化」が追求され続けている。それは我々が戦い
生き残って行くためには必要不可欠なことかもしれない。しかしそんな「無個性」な世界に
住み続けていると、やがて人も無個性になり、自分さえも見失っていくように思えてしまう。
「出口のない閉塞感」「無気力、無関心、無感動」、このまま進むと国民総うつ病状態という
言葉はまんざら大げさには思えないような気がしてくる。こんなことを考えてしまうのは自分が
今クレームによってうんざりしている性だからなのだろうと、思ってしまう。
当方が食品メーカーに供給したレトルト用の袋が破袋した(袋に穴が開く)というものである。
メーカーでは液状の商品をこの袋に充填し、レトルト(加圧加熱殺菌)をかけるのだが、
その工程で液漏れが出た。その現象が発覚した時点で製造ラインはストップし、まだ充填
されていない原料もラインから外されてしまう。これは生産マニュアル通りなのであろう。
早速事故があったロットの袋が送り返され、製袋工場で事故の原因調査が行われる。
原因は印刷したフィルムから袋にする時、印刷したフィルムをつなぎ合わせる場合がある。
つなぎ目はテープで止めて、それから連続して製袋を行っていく。当然繋ぎあわせた製品は
シール後に感知器が働いて取り除くのであるが、その前後の袋もシール温度にムラが出て
強度が落ちることがあるため安全策として、前後8枚の製品を除去するようなマニュアルに
なっている。しかし、今回はその感知器がうまく作動せず取り除くべき製品が除去されずに、
正規の製品中に混入してしまった。そしてその中の2枚から破袋が出たという事故である。
不良品の発生原因と今後の対策の報告書を持って、一昨日加工メーカーの技術者と一緒に、
謝罪と経過報告のために、お客様である食品メーカーの工場に行ってきた。
不良品の発生原因及び今後の対策は、お客様からは一応の了解は得られたものの、
当然、不良品が原因で発生した相手側の損害に対する保証の問題が発生する。
今回は製造途中でラインを止めたため、未処理原料の保証額が大きくなってくる。
(袋に充填前に冷凍品を解凍したため、冷凍し直して再度使うことができなかった)
まだ最終的な金額は算出されていないが、廃棄処分費等で総額100万円近くになるだろう。
基本的には製袋工場のミスであるため、加工会社の保険を使って処理をすることになる。
それにしても、たった2枚の不良品が100万円の損害を引き起こすことになってしまった。
数年前から、食品業界で色々な不祥事が発生し、新聞をにぎわすことが多くなっている。
産地偽装、表示違反、賞味期限改ざんなど、その内容に悪意があれば企業の存続まで
脅かされることになる。意図的なものでなく、不注意による場合でも、新聞の謝罪広告、
商品の撤去、相手先に対する補償等々、莫大な負担が発生して、そのリスクは大きい。
そんなことから企業はリスク回避の方法として、人の判断を入れない徹底したマニュアル
管理が施行されるようになった。作業時の服装、整理整頓、作業手順、品質管理など
工場内のあらゆることがマニュアル化され、徹底した管理下に置かれるようになったのである。
事故があればさらにマニュアルは強化され、鉄壁なマニュアルが作られていくようになった。
そんな風潮から、マニュアルが整備されていない会社は、遅れた会社、取引に不適な会社
と見なされ、疎外されていくように感じるほどである。
不確かなものは使わない、不安なものは出荷しない。そんな厳しさが徹底するようになり、
そこに妥協も温情も入らなくなっていく。そしてそのたゆまぬ改善が企業が競争力を付け、
商品に信頼感が増し、それを扱う側やそれを使う消費者にとっては安全安心が得られる。
しかし一方で社会全体の風潮が「マニュアル化」の傾向になっていくことにより、「人間味」
というものが無くなって行き、次第に殺伐とした世の中になって行くように思うのである。
「能率」「マニュアル」「標準化」、それは戦後の日本の産業にとっては必要不可欠なことで
あったろうと思う。しかし、多くの企業が競って効率化やマニュアル化を進めていった結果、
個性のない商品ができ、個性のない店が蔓延し、どこの店で買っても、どこの店で食べても
大差ないとう感じになってしまったのも確かなようである。
謝罪に行った工場に着いた時はちょうど昼休みの休憩時間であった。食後のひと時であろう、
工場のあちらこちらで日向ぼっこをして、ぼんやりと時間の来るのを待っている人々がいる。
来社を告げると、2階の会議室に案内された。その途中、広い食堂の脇を通り抜けていく。
そこでもポツリポツリと間隔をあけて人が座って、携帯の画面を見たり本を読んだりしている。
100人以上いるのに、この工場では人が集まっている様子がない、会話が聞こえてこない。
マニュアルにそって、ただ機械のように働いた午前中、その疲れを癒すひと時に人との会話は
反対に負担なのかもしれない。何となく「無機的な雰囲気」「笑顔のない職場」「喜びのない
仕事」そんなことを感じたのは外部から来た私だけかも知れない。
今、相変わらず「能率」「マニュアル」「標準化」が追求され続けている。それは我々が戦い
生き残って行くためには必要不可欠なことかもしれない。しかしそんな「無個性」な世界に
住み続けていると、やがて人も無個性になり、自分さえも見失っていくように思えてしまう。
「出口のない閉塞感」「無気力、無関心、無感動」、このまま進むと国民総うつ病状態という
言葉はまんざら大げさには思えないような気がしてくる。こんなことを考えてしまうのは自分が
今クレームによってうんざりしている性だからなのだろうと、思ってしまう。