60歳からの眼差し

人生の最終章へ、見る物聞くもの、今何を感じるのか綴って見ようと思う。

カフェ・ガスト

2010年02月19日 09時01分32秒 | Weblog
先週の休み、友人と11時の待ち合わせで西武線の駅に降りた。しかし降りたとたんに
携帯電話が入り「急用が出来きて行けなくなった。次回改めて逢おう」ということになる。
今さら予定も立たないし、お茶でも飲みながら、ゆっくり本でも読もうと思い駅前に出る。
この駅は乗降客も多く駅前は充実している。11時ではお昼には早い。お茶を飲んでから
食事をするのもばからしい。ドリンクと軽い食事と思い駅前の「カフェ・ガスト」に入ってみた。
モーニングの時間はすでに終わって、テーブルのメニューはランチメニューに切り替わっていた。
見開きのメインメニューはハンバーグランチ。ハンバーグと付け合わせが違うアイテムで5品、
もう一つのコーナーは和風御膳として、チキンやカレイ(魚)のフライものが5品ならんでいる。
他に追加の単品メニューが4品、後はデザートとドリンクだけである。

ここまで極端にメニューを絞り込んであると、顧客の選択の楽しみを奪われた感じがする。
メニューを見ながら、どう組み合わせにするか考える。しかし食べたいものが見当たらない。
ランチとドリンクのセットにすれば、どれを選んでも、750~850円にはなるはずである。
このメニューで、この雰囲気で、それだけの価値があるのかどうかと、疑問に感じてしまう。
メニューの調理写真を見ると、スーパーやコンビニで売っている弁当の中身を、ただ皿に
盛り付け直しただけのような感じである。ますます食べたいという気がおこらなくなった。
ウエイトレスが注文を取りに来た。「さあ、どうしよう」、しかし食べたいものが見当たらない。
「すみませんね。メニューを見ても食べたいものが見あたらないから」そう言って席を立った。
怪訝な顔をするウエイトレス、しかし入ったら食べなければいけないという義理もないだろう。
店に悪いと思うのだが、本当に食べるものがなかったのである。いままでの「すかいらーく」
と違って、「ガスト」は若い人が中心で、年寄りが入る店だはないのだろうかと思ってしまう。

「ガスト」はファミレスでは草分の「すかいらーく」の別ブランドである。昨年「すかいらーく」が
不振のため「すかいらーく」という店名を廃し、低価格店の「ガスト」への転換を図っている。
したがって「カフェ・ガスト」は「すかいらーく」再生のための新らしいモデル店舗なのだろう。
店に入ってみて感じることは、店の事情(すかいらーくの会社としての事情)を優先した店
であることを強く感じるのである。(言い換えればお客さんに目が向いていない店)
例えば、人件費を減らし少人数で効率を上げるためにアイテムを減らす。競争に負けない
ために、表面上の価格を落とす(安かろう、まずかろう)。利益を上げるために利益幅の
大きいアイテムをセントラルキッチンで大量に作り店に供給し、店では温めるだけにする。
アイテムによる食材の使い回しを良くするため、なるべく共通のものを使い、なお且つ
盛り付けも単純化する。メニューを見ると、そんな「すかいらーく」の事情が透けて見える。

学生同士や気のおけない仲間同士で安く食べる、というのが目的であれば「ガスト」は良い
のかもしれない。しかし1人でゆっくり食事をしたいという人間には不向きな店のようである。
店の落ち着き、雰囲気、接客、メニュー、盛り付け、どれをとっても「ガサツ」さを感じてしまう。
食事を単なる「メシ」にしていて、そこに豊かさ、癒し、満足感などを感じさせないのである。
私を知る人がこのブログを読んで、「あんなガサツな男に言われるなんて、ガストもかわいそう」
と言うかも知れない。「安いお金で、満足を得ようなんて虫がよすぎる」そう言うかも知れない。
「すかいらーく」は今まで良く利用していたし、決して嫌いな店ではない。しかし再生のための
方向転換は目先だにとらわれ過ぎているように思うのである。
「貧すれば鈍す」、このままでいけば、ますます泥沼に入り込むように感じるのであるが、さて。

「ガスト」で注文しないまま表に出て他の店を探す。結局入ったのはインストアベーカリー、
焼き立てのパンを2個選んで珈琲を注文する。パン工房のほんのり甘い香りのする店内で、
パンを食べ、珈琲を飲み、ゆっくり本を読んで小一時間、満足感を得て店を出た。
世の中、色々な価値観があるから、一概には何とも言えないのだろう。しかし今の世の中、
いずれ安いだけの価値は見直され、精神的な豊かさを求められるようになるように思うのだが、