60歳からの眼差し

人生の最終章へ、見る物聞くもの、今何を感じるのか綴って見ようと思う。

成熟とは何か

2013年09月20日 09時40分11秒 | 読書
 本屋に寄ったら、曽野綾子著「人間にとって成熟とはなにか」という新書が目に止まった。以前にも彼女の「老いの才覚」という本を読んだことがある。その本で老いに対してのある種の覚悟のようなものを学んだように思う。それは著者はすでに80歳を超えてなお生き生きと活躍されていること、著者がクリスチャンと言うことから宗教に裏打ちされた思考が、私には新鮮に思えたからであろう。今回のテーマは『成熟』、人は歳を重ねるほどに成熟していかなければいけない。では「成熟とは何か?」ということが書いてある。著書の中から自分が共感できる幾つかを抜き出してみる。
 
 成熟ということは、傷のない人格になることではない。やはり熟すことによる芳香を指す言葉のように思う。ある人の背景にその人を育てる時間の質が大切だ。子供は、いつも健康な意味で自分中心である。しかし大人はそうであってはならない。大人になる、成熟するということは、自分がこの地球上の、どの地理的地点と、時間的地点に置いて認識しているかにかかっている。世界を意識した地理的、時間的空間の中に自分を置き、それ以上でもそれ以下でもない小さな自分を正当に認識することが、実は本当の成熟した大人の反応なのだと思う。
 年を取るにしたがって、次第によく思ってもらおうとする元気がなくなってくるのは本当である。世間からどう思われてもいい、人間は確実に他人を正しく評価などできないのだから、と思えることが、多分成熟の証なのである。それは自分の中に、人間の生き方に関する好みが確立してきたということだ。大きな家に住んでいる人が金持ちだとか、肩書きの偉そうな人がほんとうに偉い人だとかを信じなくなることだ。そのついでに、相手に自分をほんとうに理解してもらおうとする欲望もいささか薄くなることであろう。

 私はやはりある人が品がいいと感じる時には、間違いなくその人が成熟した人格であることも確認している。品はまず流行を追わない。写真を撮られるときに無意識にピースサインをだしたり、成人式に皆が羽織る制服のような白いショールなど身につけない。あれほど無駄で個性のない衣服はない。それくらいなら、お母さんか叔母さんのショールを借りて身に着けた方がずっと個性的でいい。有名人に会いたがったり、サインをもらいたがったりすることもしない。そんなものは自分の教養とは全く無縁である。 
 品は群れようとする心境を自分に許さない。自分の尊敬する人、会って楽しい人を選んで付き合うのが原則だが、それはお互いの人生で独自の好みを持つ人々と理解しあった上で付き合うのだ。単に知り合いだというのは格好いいとか、その人と一緒だと得なことがあるとかいうことで付き合うものではない。
 品と言うものは、多分に勉強によって身につく。本を読み、謙虚に他人の言動から学び、感謝を忘れず、利己的にならないことだ。受けるだけでなく与えることは光栄だと考えていると、それだけでその人には気品が感じられるようになるものである。「健康を志向し、美容に心がける」、たいていの人がこの2点については比較的熱心にやっている。しかし教養をつけ、心を鍛える、という内面の管理についてはあまり熱心ではない。
 品を保つということは、一人で人生を戦うことなのだろう。それは別にお高く止まる態度をとるということではない。自分を失わずに、誰とでも穏やかに心を開いて会話ができ、相手と同感するところと、拒否すべき点を明確に見極め、その中にあって決して流されないことである。この姿勢を保つには、その人自身が、川の流れの中に立つ杭のようでなければならない。その比喩は決して素敵な光景ではないのだが、私は川の中の杭という存在に深い尊敬を持っているのである。世の中の災難、不運、病気、経済的変化、戦争、内乱、全てがボロ切れかゴミのようになって杭に引っかかるのだが、それでも杭はそれを引き受け、朽ちていなければ倒れることもなく、端然と川の中に立ち続ける。それが本当の自由というものの姿なのだと思う。この自立の精神がない人はつまり自由人ではない。

 偉い人だからといって、その前に出ると萎縮して自由に喋れなくなるということもなく、乞食の前だからといって急に相手を見下すような無礼な態度をとらず、同じように礼儀正しく、人間として誠実に暖かい心で接するようにできるようにしたい。
 威張るということは、一見、威張る理由をもっているように見える。地位が上だとか、年を取っているとか、その道の専門家だとか、それなりに理由はあるのだろう。しかし本当に力のある人は決して威張らない。地位は現世での仮のものだからである。年寄りだって弱い年寄りほど椅子に座って偉そうにしている。つまり威張るという人は弱い人なのである。

 
 人間を長くやっていると、それだけ熟達していくものである。心理学の本に書いてあったことだが、人間にはいろいろな欲求があって、食欲・性欲など生存に関するものから、大金持ちになりたい、賞賛を得たい、一つの道を極めたいなどなど、欲求に基づいて行動をしていると言うマズローの欲求階層説というのがあった。人は年を重ねるほどに、「生理的欲求」からはじまって、「安全欲求」、「愛情欲求」、「尊敬欲求」、「自己実現欲求」と階層を上がり、「自己超越階層」が頂点のように書いてあった。この説には異論もあり必ずしもモデルにはなりえないのだろうが、やはり人間は年とともに段階を踏んで成熟して行くのであろう。
 人は社会的な動物だから、当然多くの人と接して生きていかなければならない。生まれてからは親に学び、学校で学び、社会に出ては多くの人に接することで実践で学んでいく。そしてその目指す方向は、どうすればこの社会の中で、「納得いく生き方」ができるだろうかということだろうと思う。そのためには人との争いや軋轢はなるべく避け、周りに流されず、自分を見失わず、教養をつけ、心を鍛え、自分の生き方の好みにより、相手との距離を自在にコントロールして行く力をつける。そんなことが大切なのだろうと思うのである。