
先日6年ぶりに昔の友人と会った。彼とは東京に出て来て、最初に就職した会社の同期生である。
その会社の社員研修の時たまたま机が隣で、それがきっかけで仲良くなった。私は店舗へ、彼は
物流部門へ配属となったが、同じ寮に寄宿していたことで、独身時代の最も仲の良い友人である。
私の結婚式も彼が司会を買って出てくれたほどである。しかしお互いが結婚し、仕事も忙しくなり
次第に会う機会も少なくなり年に1~2度顔を合わす程度になっていく。そして私が45歳で会社を
辞め、彼も子会社を転戦するようになってからは数年に1度と、会う機会はめっきり減ってしまった。
6年前だったろうか?、お互いが60になった頃に会った時、彼の変わりようにびっくりしたことがある。
長身(180センチ)でスリムだった彼が100kgを超すような巨漢になっていたのである。飲み屋の
テーブルに向い合って座ると、2周りも3周りも大きくなって、以前の彼とまったく雰囲気が違っていた。
四六時中「ハア、ハア」と呼吸する息が聞こえてくる。空調が効いた室内でさえ額から汗が吹き出し、
手に持ったハンドタオルで汗を拭いていた。「どうしたの、そんなに太って?」と聞いても、「運動して
体重を落とそうと思っているんだが、なかなか時間が無くってね」と言うだけで、あまり体調や体型の
ことに触れてもらいたくない雰囲気であった。
そんな彼からの今年の年賀状に3月末で嘱託の仕事も完全に辞め、リタイアする旨の添え書きが
書いてあった。それで今回退職祝いを兼ねて会うことになったのである。会ってみると、歳の割には
豊富な頭の髪を丸刈りし、Tシャツを着てさっぱりしていた。しかし腰から下が異様に膨れた体型は、
漫画のムーミンを連想してしまうほどである。退職したことから、精神的には解放されたのであろう。
今回は自分の体調について詳しく話してくれた。
体重は過去に110kgを越えたことにもあるが、今は100kgだそうである。仕事を辞めたことを機に、
運動して体重を落とそうと、毎日歩くことにしたのだが、気負い過ぎて無理をしてしたのか足を痛め、
一時は動けなくなってしまったそうである。しかし今はなんとか1日一万歩を歩けるまで回復した。
今彼にとって「減量」は最も真剣に取り組んでいるテーマなのである。またメタボが引き金になった
のか高血圧症で糖尿病、それに加え胃食道逆流症もあって、毎日7錠の薬を飲んでいるという。
そして4年前には健康診断で肺癌が見つかり、手術で肺の1/4を切除した。今は術後4年目だが、
医者はもう転移はないだろうと言ってくれるので、今はあまり不安は感じないという。
彼は宮崎県出身、鹿児島の大学を卒業して東京に就職した。性格は穏やかで人の面倒見がよく、
おっとりとした性格は如何にも田舎育ちと言う感じである。仕事においても強引に事を運ぶ方では
なく、どちらかと言えば調整型のタイプである。サラリーマンも50代に入り出世競争から脱落すると
関連子会社などに追いやられるのが常である。そんなことで私は会社を辞めたが、彼は子会社や
関連会社を転戦するうようになった。彼が次第に太り始めたのはその頃からではなかったかと思う。
調整型の彼は職場職場で神経を使い、ストレスを溜めていったのであろう。そしてその反動により
過食になりメタボになり、やがて高血圧や糖尿病、逆流症、肺癌と病んでいったのであろうと思う。
人がこの世の中で生きていく上では必然的に競争があり、ノルマがあり、多様な人間関係がある。
そんな中を生き抜いていく時、大なり小なりストレスは生じてくる。そのストレスに対して、どう向き
合い、どうこなしていくのかは、手法も耐性も個人によって違ってくるように思う。同期の彼とは同じ
ような地方出身者であり、性格も能力も似たようなものであったと思う。私は会社の中で行き詰り
これ以上のストレスは耐えられないと思って、会社を辞めてしまった。一方彼は我慢に我慢を重ね
耐え抜き、嘱託を重ねながらも65歳まで勤め上げたのである。その判断の違いは何処にあるのだ
ろうかと考えた時、私より彼の方が少し我慢強かったのではないかと思う。
その分彼はまともにストレスを受け、そしてその代償に病気になったのかもしれない。何が幸いし、
何が災いになるのか、それは誰にも判らない。しかし自分の人生を振り返って見て言えることは、
サラリーマンの仕事で、健康を害してまで、自分を壊してまで、続けるだけの価値はないと思う。
仕事をする上で自分の置かれた環境と自分の能力や忍耐力の限界とを計って、臨界を超えない
ところで止まる。それがいかに大切であるかを今は思うのである。
こんなことを書いているうちに、大昔のことを思いだした。
私の出身は水産系の大学で、一年の夏に夏季実習というのがある。2週間を寮に泊り込み船乗り
の幹部候補としての訓練を受ける。(私の学部は船に乗ることは無いから必要無いと思うのだが)
ロープの結び方から始まって、手旗、カッター(船)、和船の漕ぎ方、遠泳(3時間)、潜水、等々
朝のランニングから始まって、1日中訓練に明け暮れる。その訓練の主旨は「自分の限界を知る」
ことにあるのだそうである。倒れるまで走り、手の皮や尻の皮が剥けるまでカッター船を漕ぎ続け、
溺れるまで泳ぐ。寮では意識を失うまで酒を飲まされ、声の涸れるまで声を張り上げさせられる。
今の時代であれば、到底許される内容ではないのだが、当時はまだ戦前のやり方が生きていた。
「板子一枚下は地獄(海)」、海の上では誰の助けも期待できない。どう判断してどう行動するか、
それには、自分の精神的な肉体的な限界を知っていなければいけない。そんなことを体で覚える
ための訓練だったように思う。当時は相当な違和感と抵抗があった。しかし今振り返ってみた時、
この経験があったからこそ、限界近くまで行き、限界の寸前で引き返せたように思うのである。
(自分でそう思っているだけで、本当は相当手前で引き返していたのかもしれないのだが)
感情のままに流されず、どこかに冷めた自分がいる。そしてその冷めた自分が、「もういい加減に
しろよ」と自分にストップをかけてしまう。傍から見れば「冷めた奴」「面白味のない男」ということに
なるのであろう。6年ぶりに会った友人は何時も全力を出し切っていたように思う。そして刀折れ
矢尽きてしまったのかもしれない。さて、どちらの人生が納得行く人生だったのだろうか、それは
誰にもわからないし、比べるものでもないだろう。それはたった一度の自分の人生であり、今振り
返っても他に 選択肢はなかったように思うからである。
彼とは今後定期的に会い、また一緒に遊ぼうということになった。独身時代無邪気に遊んだ仲間、
お互い仕事と言う枷が取れた時、また無邪気に遊ぶことができるのだろうか?40年という月日の
流れがお互いをどんなに風に変えてしまったのか?そんなことを検証をするのも面白いように思う。
その会社の社員研修の時たまたま机が隣で、それがきっかけで仲良くなった。私は店舗へ、彼は
物流部門へ配属となったが、同じ寮に寄宿していたことで、独身時代の最も仲の良い友人である。
私の結婚式も彼が司会を買って出てくれたほどである。しかしお互いが結婚し、仕事も忙しくなり
次第に会う機会も少なくなり年に1~2度顔を合わす程度になっていく。そして私が45歳で会社を
辞め、彼も子会社を転戦するようになってからは数年に1度と、会う機会はめっきり減ってしまった。
6年前だったろうか?、お互いが60になった頃に会った時、彼の変わりようにびっくりしたことがある。
長身(180センチ)でスリムだった彼が100kgを超すような巨漢になっていたのである。飲み屋の
テーブルに向い合って座ると、2周りも3周りも大きくなって、以前の彼とまったく雰囲気が違っていた。
四六時中「ハア、ハア」と呼吸する息が聞こえてくる。空調が効いた室内でさえ額から汗が吹き出し、
手に持ったハンドタオルで汗を拭いていた。「どうしたの、そんなに太って?」と聞いても、「運動して
体重を落とそうと思っているんだが、なかなか時間が無くってね」と言うだけで、あまり体調や体型の
ことに触れてもらいたくない雰囲気であった。
そんな彼からの今年の年賀状に3月末で嘱託の仕事も完全に辞め、リタイアする旨の添え書きが
書いてあった。それで今回退職祝いを兼ねて会うことになったのである。会ってみると、歳の割には
豊富な頭の髪を丸刈りし、Tシャツを着てさっぱりしていた。しかし腰から下が異様に膨れた体型は、
漫画のムーミンを連想してしまうほどである。退職したことから、精神的には解放されたのであろう。
今回は自分の体調について詳しく話してくれた。
体重は過去に110kgを越えたことにもあるが、今は100kgだそうである。仕事を辞めたことを機に、
運動して体重を落とそうと、毎日歩くことにしたのだが、気負い過ぎて無理をしてしたのか足を痛め、
一時は動けなくなってしまったそうである。しかし今はなんとか1日一万歩を歩けるまで回復した。
今彼にとって「減量」は最も真剣に取り組んでいるテーマなのである。またメタボが引き金になった
のか高血圧症で糖尿病、それに加え胃食道逆流症もあって、毎日7錠の薬を飲んでいるという。
そして4年前には健康診断で肺癌が見つかり、手術で肺の1/4を切除した。今は術後4年目だが、
医者はもう転移はないだろうと言ってくれるので、今はあまり不安は感じないという。
彼は宮崎県出身、鹿児島の大学を卒業して東京に就職した。性格は穏やかで人の面倒見がよく、
おっとりとした性格は如何にも田舎育ちと言う感じである。仕事においても強引に事を運ぶ方では
なく、どちらかと言えば調整型のタイプである。サラリーマンも50代に入り出世競争から脱落すると
関連子会社などに追いやられるのが常である。そんなことで私は会社を辞めたが、彼は子会社や
関連会社を転戦するうようになった。彼が次第に太り始めたのはその頃からではなかったかと思う。
調整型の彼は職場職場で神経を使い、ストレスを溜めていったのであろう。そしてその反動により
過食になりメタボになり、やがて高血圧や糖尿病、逆流症、肺癌と病んでいったのであろうと思う。
人がこの世の中で生きていく上では必然的に競争があり、ノルマがあり、多様な人間関係がある。
そんな中を生き抜いていく時、大なり小なりストレスは生じてくる。そのストレスに対して、どう向き
合い、どうこなしていくのかは、手法も耐性も個人によって違ってくるように思う。同期の彼とは同じ
ような地方出身者であり、性格も能力も似たようなものであったと思う。私は会社の中で行き詰り
これ以上のストレスは耐えられないと思って、会社を辞めてしまった。一方彼は我慢に我慢を重ね
耐え抜き、嘱託を重ねながらも65歳まで勤め上げたのである。その判断の違いは何処にあるのだ
ろうかと考えた時、私より彼の方が少し我慢強かったのではないかと思う。
その分彼はまともにストレスを受け、そしてその代償に病気になったのかもしれない。何が幸いし、
何が災いになるのか、それは誰にも判らない。しかし自分の人生を振り返って見て言えることは、
サラリーマンの仕事で、健康を害してまで、自分を壊してまで、続けるだけの価値はないと思う。
仕事をする上で自分の置かれた環境と自分の能力や忍耐力の限界とを計って、臨界を超えない
ところで止まる。それがいかに大切であるかを今は思うのである。
こんなことを書いているうちに、大昔のことを思いだした。
私の出身は水産系の大学で、一年の夏に夏季実習というのがある。2週間を寮に泊り込み船乗り
の幹部候補としての訓練を受ける。(私の学部は船に乗ることは無いから必要無いと思うのだが)
ロープの結び方から始まって、手旗、カッター(船)、和船の漕ぎ方、遠泳(3時間)、潜水、等々
朝のランニングから始まって、1日中訓練に明け暮れる。その訓練の主旨は「自分の限界を知る」
ことにあるのだそうである。倒れるまで走り、手の皮や尻の皮が剥けるまでカッター船を漕ぎ続け、
溺れるまで泳ぐ。寮では意識を失うまで酒を飲まされ、声の涸れるまで声を張り上げさせられる。
今の時代であれば、到底許される内容ではないのだが、当時はまだ戦前のやり方が生きていた。
「板子一枚下は地獄(海)」、海の上では誰の助けも期待できない。どう判断してどう行動するか、
それには、自分の精神的な肉体的な限界を知っていなければいけない。そんなことを体で覚える
ための訓練だったように思う。当時は相当な違和感と抵抗があった。しかし今振り返ってみた時、
この経験があったからこそ、限界近くまで行き、限界の寸前で引き返せたように思うのである。
(自分でそう思っているだけで、本当は相当手前で引き返していたのかもしれないのだが)
感情のままに流されず、どこかに冷めた自分がいる。そしてその冷めた自分が、「もういい加減に
しろよ」と自分にストップをかけてしまう。傍から見れば「冷めた奴」「面白味のない男」ということに
なるのであろう。6年ぶりに会った友人は何時も全力を出し切っていたように思う。そして刀折れ
矢尽きてしまったのかもしれない。さて、どちらの人生が納得行く人生だったのだろうか、それは
誰にもわからないし、比べるものでもないだろう。それはたった一度の自分の人生であり、今振り
返っても他に 選択肢はなかったように思うからである。
彼とは今後定期的に会い、また一緒に遊ぼうということになった。独身時代無邪気に遊んだ仲間、
お互い仕事と言う枷が取れた時、また無邪気に遊ぶことができるのだろうか?40年という月日の
流れがお互いをどんなに風に変えてしまったのか?そんなことを検証をするのも面白いように思う。
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