60歳からの眼差し

人生の最終章へ、見る物聞くもの、今何を感じるのか綴って見ようと思う。

うつの前兆(2)

2013年11月08日 08時45分17秒 | Weblog
 このブログで先々週書いた「適応障害と抑うつ症状・・・」の診断書を会社に提出し、今は会社を休んでいる若者と会ってきた。日曜日のお昼、新宿で待ち合わせしてレストランに入る。「調子はどうなの?」と、その後の様子を聞いて見る。「そうですね。部屋の中に閉じこもっていると、色んな事を考えてしまい気分が滅入ってきます。どこかに出かければ良いのでしょうが、それも億劫なのです。こういう状態を鬱々としていると言うのでしょうか?」そんな話から始まって、彼の生い立ちやこの2週間の経過を聞いてみた。

 彼は仙台に両親がいて3人兄弟の長男である。父親はワンマンな人で子供達に対して自分の言ったことに逆らうことを許さなかった。弟は兄の後ろに隠れ、妹は要領よく立ち振る舞う。したがっていつも長男の自分が矢面に立って叱られていた。母親と子供3人の同盟と父親との確執というか不和、それが彼の育った家庭環境だったようである。「学校を卒業してからは地元仙台で就職し親と別居して暮らす」、これが彼の希望であった。しかし地元での就職は厳しく、就職時期を逸し結局は就職浪人になってしまった。しかたなく仙台からインターネットで職を探し、3年前に東京で今の会社へ就職したのである。

 診断書を提出して休み始めて直ぐに実家に帰ったそうである。そして今の状況を親に話した時、父親は「帰って来て地元で就職先を探せば良い」と地元に戻ってくる事に賛成した。しかし母親の方は息子の体調の事を心配するだけで、戻って来たほうが良いとは言わなかった。それは父親との不和から、同居は息子にとって辛くなるだろうと言う思いがあったからだろうと言う。結局実家に長居する気になれず、早々に東京へ帰って来たそうである。。

 彼はどんなに考えても、今の会社に復帰する気にはなれず、転職を決心せざるを得ないと言う。できれば仙台で就職したいという思いは強く、東京の職安(ハローワーク)で仙台を中心に会社を検索することにした。職安へ行き担当者に相談しながら、これと思った会社へ履歴書とエントリーシートを提出する。ここ10日ぐらいで仙台の会社3社に応募したそうである。週に1、2度職安に顔を出すだけ、それ以外には全く用事がない。就職浪人中はアルバイトに行っていたから、それなりに忙しかった。しかし今は「暇とはこんなに持て余すものか?」、と思うそうである。

 土日は友達を引っ張り出して会ったりしても、平日は全く一人で部屋の中にいる。「これではまずい。なにか気の紛れる事をしなければ、本当にウツになってしまう」そんな恐怖からか無理矢理外出して、新宿をフラフラと歩くそうである。先日は目的もなく中央線の電車に乗った。そして乗り継ぎしながら、各駅停車で甲府まで行った。しばらく甲府市内をぶらぶらし、名物の「ほうとう」を食べて帰ってきたと言う。出かけても楽しくもないが、しかし部屋にいるよりましである。今はそんな日々が続いているようである。

 彼の一番気になっていることは、会社への出処進退のことである。会社側は彼が復帰することが前提であるから、新たな人の採用活動はしていない。中小企業で余裕がないから、彼の仕事は同僚が全てをカバーしなければいけなくなってくる。そのためその同僚の仕事の負担は2人分になり、残業と休日出勤でこなしているようである。彼にとってそのことが一番気がかりで、心苦しいことなのである。転職を決めたのなら、退職を言えば良いのだが、本音としては再就職の目処が立ってから退職を申し出たい。そのことが彼の気持ちを苛んでいるようでもある。

 先回のブログで書いたように、「うつ」への引き金が、「恐怖、ストレス、孤立・・の中に長く身を置く・・・」と言うことであれば、次が無いのに退職すると言うことは、自らが社会的な帰属を断ち切り、孤立の状態に入るということである。東京と言う都会には馴染まない、今の会社には適応し辛い、実家にも自分の居場所がない。今彼を取り巻く環境は出口が見えない最悪な状況なのである。
 最近の子供達は社会や親が敷いたレールの上をひたすら走り、その延長線で社会に出てくるように思う。だから一旦そのレールを踏み外してしまうと、自力ではなかなか立ち直おることができないひ弱な一面を持っている。自分のこれからをどう考え、どう決断し、どう行動していくのか、彼にとっては試練の時である。
 今週の金曜日、精神面の途中検査で再びメンタルクリニックへ行くそうである。その場で医者と相談し、退職願を出すかどうか決めたいと言っていた。さてどうするのか?どうなるのか?しばらくは彼の様子を見守っていくつもりである。






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