
実家が仙台にあり、地元の大学を卒業し昨年入社した男性社員が親会社にいる。今回の震災で
彼の実家の周辺も被害を受け、電気や水道のインフラが止まり一時は学校へ避難したそうである。
東京にいて郷里の惨状を聞くにつれ、一刻も早く帰りたいと思っていたそうだが、親は息子に対し
「幸いこちらの被害も少なかった。帰ってくる必要はないから、お前は東京でしっかり仕事をしろ」
と言われていた。それでもやはり心配は募り、自分で確認しておきたかったのだろう、ゴールデン
ウイークを待っていたかのように郷里へ帰って行った。
連休明けに東京に帰ってきた本人から現地の様子を聞いて見た。
実家は一戸建てなのだが、あちらこちらにひびが入り、雨がひどい時は雨漏りがするそうである。
いずれは修理をしなけらばならないが、今は重度の被災地の工事で手一杯で、軽症の自宅までは
手が回らない。自宅付近のあちらこちらに、地震による地割れや段差ができて、自転車で夜道は
危なくて走れない状況で、それは今も解消されていないというと言う。
彼の大学時代の友人は全員無事だった。しかしその中に石巻の友人が2人いて、一人の友人の
家は石巻の市街地にあり、家は津波で流されて交差点の真ん中にその残骸を晒していたという。
表から見ると2階部はしっかり残っているように見えるが、裏に回るとそれは壁が残っているだけ、
まるで映画のセットを裏から見るようで、木造建築のもろさと津波の強大な力をまざまざと感じる。
もう一人の友人の家は高台にあり津波の被害からは免れたが、道路を含めインフラが全て遮断し
一時は避難生活を余儀なくされていた。しかし今は何とか生活ができるまでには復旧している。
彼は連休の後半を利用し、高台にある友人の家に寝泊まりさせてもらいながら、もう一人の友人
の応援ボランティアに行ってきたそうである。
現地に入って、まず感じたことは、テレビで見ていた情景と実際に目の前に展開する情景との違い
である。テレビの映像は瓦礫が何処までも続く殺伐とした風景であるが、実際には外国の軍隊が
入り、外人のボランティアも入り、役所関係の人が行き交い、そこに展開されている情景は映画の
セットのような情景のようだったと言う。それは今まであっただろう東北のさびれた漁港のイメージと
かけ離れ現実味のない風景が展開されていた。そしてそう思った時に改めて「これは大変なことが
起こってしまったのだ」と実感したそうである。テレビで見ると道路の瓦礫は片づけられ、車が行き
来しているが、実際はそれはメイン通りだけで一歩中に入るには瓦礫を乗り越えて歩くようである。
何がどう壊れたのか、その原形が想像だにできないものが散乱し、どこからどう流されて来たのか
墓石だけがポツンと横たわっている光景もあった。
彼は友人の被災した家の周りの瓦礫を台車に乗せて捨て場まで運ぶのを手伝った。瓦礫の中に
泥だらけの靴が散乱していたり、雑誌だったのか本だったのか、汚れた紙片が瓦礫に乾燥して
こびりついている。ここに人が住んでいたのかと思うものの、その情景は一向に思い浮かばない。
そんな中で黙々と片づけを手伝っていく。やがて、ある面積が広々として物がなくなってきたとき、
自分の労力が現実の形として見えてくる。そのことでやっと一つの達成感を感じてくるそうである。
彼の出身の大学は震災からゴールデンウイークまでは休みで、多くの学生がボランティアに参加
しているそうである。そんな中に、今はまだ大学院にいる友人もいて、その連中がボランティアの
実情を話してくれた。ボランティアに参加する人も様々で、頭が下がるほど献身的な人もいる反面、
中には就活のためのアピールが目的の学生もいる。そんな連中ほど寝る場所が狭いとか、飯が
まずいとか不平が多いそうである。そして受ける側の被災者も様々で「やってもらって当たり前」
という人もいて、ボランティアに対し不平不満をぶつける人もいるらしい。
家や家族を失った人々にとってその怒りを何処にぶつけようもない時、その矛先がボランティアに
向かうのかもしれないと言っていたそうである。しかし大半の人は「ありがとう」の感謝の気持ちを
伝えてくれる。その言葉を聞くと初めて報われた感じを得、また頑張ろうといる気になるそうである。
ボランティアは原則1週間で区切って一旦引き揚げ、リフレッシュしてからまた現場に向うようだ。
それはボランティアする側も、受ける側も長ければ長くなるほどストレスが溜まり不満が出てくる。
それを避ける為であり、これは阪神大震災の経験からか出たボランティアのルールだそうである。
このゴールデンウイークには多くの物見遊山の観光客も入ってきたようである。瓦礫をバックに
記念撮影をする。にっこり笑ってピースのサインで写真に納まる。こんな光景を数多く見かけると、
真面目にボランティアに取り組んでいる人にとって、「被災者へ何の感情も湧かないのか!」と
怒りを覚えてくるそうである。ACのTV広告ではないが「気持ちは行いになって初めて見える」、
反対に「行いによって人の気持ちが見えてくる」、「何と心ない人の多いことか」、これも現実の
姿のようである。
仙台から帰ってきた彼が言っていたが、仙台と東京では震災の捕え方には大きな温度差がある。
家族を失い家や職場を失った人々、被災はしたが比較的ダメージの少ない人々、東京などにいて
多少間接的な影響を受けた人々、関西以西でほとんど影響を受けなかった人々、その影響度に
より温度差があるのは当然かもしれない。しかし口先だけで慰みを言い、ヘラヘラしながら地震の
ことを面白おかしく話しているのを見ると、分かっているのだが、やはり無性に腹が立つという。
彼は実際に仙台に帰る前まで、「地元で皆が苦労しているのに、自分は東京でのうのうと暮らして
いて良いのだろうか?」と、いつも自分を責めていたそうである。できれば自分も現地の人と同じ
ように被災し、同じ苦労をしていた方が精神的には楽だったろう。そんな風にも語ってくれた。
連休明けに帰ってきた彼は少し明るさが戻ってきたように思う。それは現地に行って現実を自分の
目で確認し、汗を流したことで今回の震災をある程度受け入れることができたのであろう。24歳の
若者が経験した震災、これからの彼の人生にとって必ずやプラスに働くことがあるのだろうと思う。
彼の実家の周辺も被害を受け、電気や水道のインフラが止まり一時は学校へ避難したそうである。
東京にいて郷里の惨状を聞くにつれ、一刻も早く帰りたいと思っていたそうだが、親は息子に対し
「幸いこちらの被害も少なかった。帰ってくる必要はないから、お前は東京でしっかり仕事をしろ」
と言われていた。それでもやはり心配は募り、自分で確認しておきたかったのだろう、ゴールデン
ウイークを待っていたかのように郷里へ帰って行った。
連休明けに東京に帰ってきた本人から現地の様子を聞いて見た。
実家は一戸建てなのだが、あちらこちらにひびが入り、雨がひどい時は雨漏りがするそうである。
いずれは修理をしなけらばならないが、今は重度の被災地の工事で手一杯で、軽症の自宅までは
手が回らない。自宅付近のあちらこちらに、地震による地割れや段差ができて、自転車で夜道は
危なくて走れない状況で、それは今も解消されていないというと言う。
彼の大学時代の友人は全員無事だった。しかしその中に石巻の友人が2人いて、一人の友人の
家は石巻の市街地にあり、家は津波で流されて交差点の真ん中にその残骸を晒していたという。
表から見ると2階部はしっかり残っているように見えるが、裏に回るとそれは壁が残っているだけ、
まるで映画のセットを裏から見るようで、木造建築のもろさと津波の強大な力をまざまざと感じる。
もう一人の友人の家は高台にあり津波の被害からは免れたが、道路を含めインフラが全て遮断し
一時は避難生活を余儀なくされていた。しかし今は何とか生活ができるまでには復旧している。
彼は連休の後半を利用し、高台にある友人の家に寝泊まりさせてもらいながら、もう一人の友人
の応援ボランティアに行ってきたそうである。
現地に入って、まず感じたことは、テレビで見ていた情景と実際に目の前に展開する情景との違い
である。テレビの映像は瓦礫が何処までも続く殺伐とした風景であるが、実際には外国の軍隊が
入り、外人のボランティアも入り、役所関係の人が行き交い、そこに展開されている情景は映画の
セットのような情景のようだったと言う。それは今まであっただろう東北のさびれた漁港のイメージと
かけ離れ現実味のない風景が展開されていた。そしてそう思った時に改めて「これは大変なことが
起こってしまったのだ」と実感したそうである。テレビで見ると道路の瓦礫は片づけられ、車が行き
来しているが、実際はそれはメイン通りだけで一歩中に入るには瓦礫を乗り越えて歩くようである。
何がどう壊れたのか、その原形が想像だにできないものが散乱し、どこからどう流されて来たのか
墓石だけがポツンと横たわっている光景もあった。
彼は友人の被災した家の周りの瓦礫を台車に乗せて捨て場まで運ぶのを手伝った。瓦礫の中に
泥だらけの靴が散乱していたり、雑誌だったのか本だったのか、汚れた紙片が瓦礫に乾燥して
こびりついている。ここに人が住んでいたのかと思うものの、その情景は一向に思い浮かばない。
そんな中で黙々と片づけを手伝っていく。やがて、ある面積が広々として物がなくなってきたとき、
自分の労力が現実の形として見えてくる。そのことでやっと一つの達成感を感じてくるそうである。
彼の出身の大学は震災からゴールデンウイークまでは休みで、多くの学生がボランティアに参加
しているそうである。そんな中に、今はまだ大学院にいる友人もいて、その連中がボランティアの
実情を話してくれた。ボランティアに参加する人も様々で、頭が下がるほど献身的な人もいる反面、
中には就活のためのアピールが目的の学生もいる。そんな連中ほど寝る場所が狭いとか、飯が
まずいとか不平が多いそうである。そして受ける側の被災者も様々で「やってもらって当たり前」
という人もいて、ボランティアに対し不平不満をぶつける人もいるらしい。
家や家族を失った人々にとってその怒りを何処にぶつけようもない時、その矛先がボランティアに
向かうのかもしれないと言っていたそうである。しかし大半の人は「ありがとう」の感謝の気持ちを
伝えてくれる。その言葉を聞くと初めて報われた感じを得、また頑張ろうといる気になるそうである。
ボランティアは原則1週間で区切って一旦引き揚げ、リフレッシュしてからまた現場に向うようだ。
それはボランティアする側も、受ける側も長ければ長くなるほどストレスが溜まり不満が出てくる。
それを避ける為であり、これは阪神大震災の経験からか出たボランティアのルールだそうである。
このゴールデンウイークには多くの物見遊山の観光客も入ってきたようである。瓦礫をバックに
記念撮影をする。にっこり笑ってピースのサインで写真に納まる。こんな光景を数多く見かけると、
真面目にボランティアに取り組んでいる人にとって、「被災者へ何の感情も湧かないのか!」と
怒りを覚えてくるそうである。ACのTV広告ではないが「気持ちは行いになって初めて見える」、
反対に「行いによって人の気持ちが見えてくる」、「何と心ない人の多いことか」、これも現実の
姿のようである。
仙台から帰ってきた彼が言っていたが、仙台と東京では震災の捕え方には大きな温度差がある。
家族を失い家や職場を失った人々、被災はしたが比較的ダメージの少ない人々、東京などにいて
多少間接的な影響を受けた人々、関西以西でほとんど影響を受けなかった人々、その影響度に
より温度差があるのは当然かもしれない。しかし口先だけで慰みを言い、ヘラヘラしながら地震の
ことを面白おかしく話しているのを見ると、分かっているのだが、やはり無性に腹が立つという。
彼は実際に仙台に帰る前まで、「地元で皆が苦労しているのに、自分は東京でのうのうと暮らして
いて良いのだろうか?」と、いつも自分を責めていたそうである。できれば自分も現地の人と同じ
ように被災し、同じ苦労をしていた方が精神的には楽だったろう。そんな風にも語ってくれた。
連休明けに帰ってきた彼は少し明るさが戻ってきたように思う。それは現地に行って現実を自分の
目で確認し、汗を流したことで今回の震災をある程度受け入れることができたのであろう。24歳の
若者が経験した震災、これからの彼の人生にとって必ずやプラスに働くことがあるのだろうと思う。
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