先日の夜中、息子から電話がかかってきた。「タカシだけど、今病院から・・」、電話に出たのは女房である。女房は少し声が違うように感じ、「少し声がおかしいね?」と言う。その途端に電話はブツと切れてしまった。いわゆるオレオレ詐欺である。他人事かと思っていたが、いよいよ身近までせまってきたようである。いまや年間被害額は400億円を超えると言われる特殊詐欺、あれほど報道されているのにも関わらず、なぜ世の中の年寄りは、いとも簡単に騙されてしまうのか不思議である。
オレオレ詐欺の騙しのテクニックは色々言われている。一つは母親と息子の関係を利用する。一つは事前に個人情報を調べておいて会話の中に織り込んでいく。一つは緊急事態という設定を作る。「お金を取られてしまった」、「会社の金を置き忘れた」、今回の電話は「事故を起こしてしまって至急に金が要る」という設定なのだろう。そういう状況を聞くと母親はパニック状態になり、冷静な判断ができなくなる。「何とか助けてやらなければ・・」それが相手の思う壺なのである。
詐欺にも色々あるようで、高利回り元本保障と謳う資産運用、未公開株のもうけ話、冷静に考えればそんな上手い話は無いだろうと思うのだが、これもまた相変わらず新聞を賑あわせている。歳を取って稼ぐことができなくなると、将来に対する不安が付きまとう。だからできれば少しでも楽に、少しでも有利に、今持っている資金を運用したいという欲が出る。そんな気持ちに付け込まれて儲け話に乗ってしまうのだろう。
阪急阪神ホテルズによる虚偽表示に端を発した食品の表示問題、これも言ってみれば騙しである。芝エビを使っていると言ってながら実際はバナメイエビ、車海老がブラックタイガー、鮮魚や活ホタテが冷凍品、ステーキが牛脂をいれた加工肉、自家製パンが既製品と、虚偽表示が次から次へとあぶりだされてきた。1社や2社ならともかくホテルや百貨店がこぞってこの種の虚偽表示があったという。ここまで一般化していたということは、その背景に日本人のブランド志向の強さがあると言われている。あのブランドだから安心、高いから良いもの、あそこで食べるものは一流、そこにブランドに意識付けられた自分自身の盲点があるのではないだろうか?
私は伊勢海老を美味しいとは思わない。それが伊勢海老かどうかを見分けられる舌も持っていない。現に今まで虚偽表示を見破った消費者はほとんどなく、皆満足して食べていたのである。我々がこだわっているブランドとはそんなものである。伊勢海老だろうがブラックタイガーであろうが、同じたんぱく質で栄養価に変わりはなく、言ってみれば自己満足の世界である。こだわるから虚偽表示が起こるわけで、ブランド信奉が盲点になる。ブランドに頼らず、自分の目や舌や感性を大切にする。できればそうありたいものである。
「朝採れレタス」「朝摘みイチゴ」とスーパーの店頭に表示があったら、それは今朝採ったものだろうと錯覚する。しかし誰も今朝とは言っていない。昨日の朝かもしれないし、3日前の朝かもしれない。「血圧が気になる人へ・・・」と書いてあれば血圧降下に有効だと錯覚する。しかしそんなことに何の保証もない。この手の表現はごまんとある。「採れ立て」、「新鮮」、「有効成分配合」、「特別価格」、「原価割れ」・・・・、何を基準にそういっているのか不明確なものもばかりである。特に食べるものや美容、健康に関するものはこの種の曖昧な表現は満ち満ちているように思うのである。それは言葉から連想して消費者が錯覚してくれることを期待している。商売は「売らんかな!」である。そういう前提に立って、少し冷めた目で「売り文句」は受け止めるべきであろう。
人の気持ちを誘導して思い通りに操りたい。そのためにあの手この手と考え、人の盲点を突いてくる。その手段が法に触れれば詐欺になり、法に触れなければ「上手いやり方」なのである。我々の周りには騙しのテクニックがあふれている。だから何を信じてよいのか?誰を信じてよいのか?いつも疑心暗鬼で暮らしているのかもしれない。「人の言うことは安易に信じてはいけない」、「ブランド信奉はやめ、自分のセンスや価値観を磨く」、「イメージに流されず、自分なりの客観的な価値基準を持つ」そうは言っても、そんなことばかりを気にしていては日々暮らしていくには窮屈だし楽しくない。
思うに、この種の問題は風邪やインフルエンザと同じように思うのである。手洗い、うがい、マスクとどんなに防御しても万全ではない。しかもいつも武装していたのでは鬱陶しい。だから風邪やインフルエンザに罹らないためには、最後の塞である免疫力を高めておくしかないように思うのである。
私は「騙し」に対する免疫力は「判断力」ではないだろうかと思う。騙されるのは人であるが、騙すのも人である。だから、人の言葉を言葉通り信用することはほとんどしない。とは言っても人の話を聞いていないわけではない。多分人一倍相手の話を聞く方である。そして相手を観察し、相手(人)を理解しようとする。そうすればその人に関わることで判断ミスをすることはなくなる。私が万が一にも人に騙されたり、引っかかったりしたとすれば、それは私に人を見る目(免疫力)がなかったと自戒するだけである。
オレオレ詐欺の騙しのテクニックは色々言われている。一つは母親と息子の関係を利用する。一つは事前に個人情報を調べておいて会話の中に織り込んでいく。一つは緊急事態という設定を作る。「お金を取られてしまった」、「会社の金を置き忘れた」、今回の電話は「事故を起こしてしまって至急に金が要る」という設定なのだろう。そういう状況を聞くと母親はパニック状態になり、冷静な判断ができなくなる。「何とか助けてやらなければ・・」それが相手の思う壺なのである。
詐欺にも色々あるようで、高利回り元本保障と謳う資産運用、未公開株のもうけ話、冷静に考えればそんな上手い話は無いだろうと思うのだが、これもまた相変わらず新聞を賑あわせている。歳を取って稼ぐことができなくなると、将来に対する不安が付きまとう。だからできれば少しでも楽に、少しでも有利に、今持っている資金を運用したいという欲が出る。そんな気持ちに付け込まれて儲け話に乗ってしまうのだろう。
阪急阪神ホテルズによる虚偽表示に端を発した食品の表示問題、これも言ってみれば騙しである。芝エビを使っていると言ってながら実際はバナメイエビ、車海老がブラックタイガー、鮮魚や活ホタテが冷凍品、ステーキが牛脂をいれた加工肉、自家製パンが既製品と、虚偽表示が次から次へとあぶりだされてきた。1社や2社ならともかくホテルや百貨店がこぞってこの種の虚偽表示があったという。ここまで一般化していたということは、その背景に日本人のブランド志向の強さがあると言われている。あのブランドだから安心、高いから良いもの、あそこで食べるものは一流、そこにブランドに意識付けられた自分自身の盲点があるのではないだろうか?
私は伊勢海老を美味しいとは思わない。それが伊勢海老かどうかを見分けられる舌も持っていない。現に今まで虚偽表示を見破った消費者はほとんどなく、皆満足して食べていたのである。我々がこだわっているブランドとはそんなものである。伊勢海老だろうがブラックタイガーであろうが、同じたんぱく質で栄養価に変わりはなく、言ってみれば自己満足の世界である。こだわるから虚偽表示が起こるわけで、ブランド信奉が盲点になる。ブランドに頼らず、自分の目や舌や感性を大切にする。できればそうありたいものである。
「朝採れレタス」「朝摘みイチゴ」とスーパーの店頭に表示があったら、それは今朝採ったものだろうと錯覚する。しかし誰も今朝とは言っていない。昨日の朝かもしれないし、3日前の朝かもしれない。「血圧が気になる人へ・・・」と書いてあれば血圧降下に有効だと錯覚する。しかしそんなことに何の保証もない。この手の表現はごまんとある。「採れ立て」、「新鮮」、「有効成分配合」、「特別価格」、「原価割れ」・・・・、何を基準にそういっているのか不明確なものもばかりである。特に食べるものや美容、健康に関するものはこの種の曖昧な表現は満ち満ちているように思うのである。それは言葉から連想して消費者が錯覚してくれることを期待している。商売は「売らんかな!」である。そういう前提に立って、少し冷めた目で「売り文句」は受け止めるべきであろう。
人の気持ちを誘導して思い通りに操りたい。そのためにあの手この手と考え、人の盲点を突いてくる。その手段が法に触れれば詐欺になり、法に触れなければ「上手いやり方」なのである。我々の周りには騙しのテクニックがあふれている。だから何を信じてよいのか?誰を信じてよいのか?いつも疑心暗鬼で暮らしているのかもしれない。「人の言うことは安易に信じてはいけない」、「ブランド信奉はやめ、自分のセンスや価値観を磨く」、「イメージに流されず、自分なりの客観的な価値基準を持つ」そうは言っても、そんなことばかりを気にしていては日々暮らしていくには窮屈だし楽しくない。
思うに、この種の問題は風邪やインフルエンザと同じように思うのである。手洗い、うがい、マスクとどんなに防御しても万全ではない。しかもいつも武装していたのでは鬱陶しい。だから風邪やインフルエンザに罹らないためには、最後の塞である免疫力を高めておくしかないように思うのである。
私は「騙し」に対する免疫力は「判断力」ではないだろうかと思う。騙されるのは人であるが、騙すのも人である。だから、人の言葉を言葉通り信用することはほとんどしない。とは言っても人の話を聞いていないわけではない。多分人一倍相手の話を聞く方である。そして相手を観察し、相手(人)を理解しようとする。そうすればその人に関わることで判断ミスをすることはなくなる。私が万が一にも人に騙されたり、引っかかったりしたとすれば、それは私に人を見る目(免疫力)がなかったと自戒するだけである。