monologue
夜明けに向けて
 



アサンシャインagainその39
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エンターテイナーの相棒ギタリスト中島茂男が「そろそろ、ふたりで仕事を始めて二年になるから記念にアルバムを作りましょうか」
と提案したことで始まったアルバム作りの曲のリズムトラックとして宮下の自宅スタジオ「カールトンウエイスタジオ」のティアック8トラック・レコーダーにリズムギターとベースを録音した。ビートルズの時代にやっと4トラックレコーダーができて多重録音が始まり、この頃の自宅スタジオは8トラックが主流になっていたのだ。
その頃、中島茂男の住んでいた長屋式集合住宅に杉本圭(KEI SUGIMOTO)という青年が住んでいた。
かれは日本でミュージシャンをしていたが渡米してガーデナー(庭師)の手伝いなどをして暮らしていた。そして自分達のバンドを組んでベースギターをやっていた。中島はかれにレコーディングへの参加を打診し、やるならストリングス系の音がほしいと言った。わたしはかれの所有するベースアンプとベーススピーカーを買い上げた。それによって杉本はその頃、発売されて話題になっていたアープ社のストリングスアンサンブル(STRINGS ENSEMBLE)を購入してレコーディングに参加したのであった。
 ローリング・ストーンズの元メンバー。ビル・ワイマンのローリング・ストーンズへの加入は、かれが立派なベースアンプを所有していたからだという伝説があるように必要な楽器の所有はメンバーとなるための大きな条件となるのだ。
そしてだんだんアルバムのレコーディングが進んでドラムスの収録というところまできたのだがドラムスは出る音が多くて8トラックではチャンネル数が足りないので対応できないということで、24チャンネルトラックレコーダーのスタジオを探そうということになった。ところが有名スタジオはどこも使用料金が高くて敷居が高かったので支払えそうな安いスタジオを探した。その頃、ハリウッドにチャイニーズシアターというマリリン・モンローなど有名スターのサイン、手形足形などで有名な映画館があってその向かいの老朽化したビルを取り壊して新しくするという噂だった。そのビルの中の24チャンネルトラックスタジオのレコーディング料金がビルの工事などの関係で安いということだった。それでそのチャイニーズシアターの向かいの老朽ビルに入ると、ところどころ工事していた。全体を取り壊すわけではなく特にひどいところを修復してリフォームしているようだった。その中にある24チャンネルトラックスタジオ(PARANAVA STUDIO)はガナパーチGANAPATI)というインディアン名をもったエンジニアがやっていた。レコーディング料金は格安で防音もきちんとしているし心配なら工事していない時間に録音すれば問題はなかった。それでそのPARANAVA STUDIOでドラムス、ヴォーカル、ピアノ、などなどのレコーディングを行うことに決定したのである。
わたしはアルバムのタイトルを「プロセス」としてプロデューサー、宮下富実夫に人類が絶滅する嵐を音楽にした曲を作ってほしいとオファーした。地球規模パンデミック、温暖化気候変動、経済破綻、原発稼働、エネルギー危機、核戦争などなど解決できない様々な問題の渦中で争い地球絶滅につき進む人類の姿をストームとして音楽にするのだ。宮下富実夫が自身の8トラックレコーダーで時間をかけてレコーディングしてきたシンセの多重録音の曲「嵐(STORM)」を24チャンネルトラックにコピーする際、エンジニア、ガナパーチと揉めた。宮下は嵐のすごさを表すために50ヘルツ以下の低音をインジケーターの針振り切れッ放しにして録音していた。ガナパーチはエンジニアとしてそれを非難した。それでも宮下はアーティストとしてゆずらず論争になったがそのままコピーさせた。エンジニアは電気、物理の法則に忠実に仕事するがアーティストは常にべつの可能性を求めて無理でも試そうとする。アルバム「PROCESS」ができあがって大音量で聴くと、その部分にさしかかると部屋の窓ガラスが震えてずいぶん効果があったのだがのちにCD化された時、自動的に50ヘルツ以下の帯域がカットされて再現されなくなって残念ながら宮下の苦労は水の泡になってしまうのであった。基本的な楽器の音録りを終えて24チャンネルトラックスタジオ(PARANAVA STUDIO)に入ってヴォーカルを録る時、エンジニアのガナパーチ(GANAPATI)に英語の発音のダメだしを頼んだ。
 アバはスェーデン式発音をキュートな訛りと感じさせることができたので大成功した。日本でも東北出身歌手たちが訛りを武器にしているように訛りも魅力になれば素晴らしいのである。芸術関係はなにかひっかかりがあるほうがいい。
とはいえ、なにを言ってるかわからないと困る。ガナパーチはありがたいことに厳しくてなかなかOKをださない。日頃英語で歌う仕事をして会話も問題なく通じてもネィティヴスピーカーの耳で聞いてもらうとやはりかなり「ダメだし」が多くて矯正にずいぶん時間がかかった。何度も何度も歌いヘトヘトになってやっと終わった。
fumio

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カリフォルニアサンシャインagainその38

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「そろそろ、ふたりで仕事を始めて二年になるから記念にアルバムを作りましょうか」
と中島茂男が提案した。それから毎日の仕事中、曲の構想を練り演奏しながらコード進行や互いのフレイズを練りあげていった。宇宙創生から現代までを語る歌詞は規則通りの教科書英語より生きた表現につとめた。
この時期に渡米していた山本コータローがわたしたちが曲を試行錯誤して練り上げている途中に店にやってきて酒を飲みながらジッと聞いていた。そして日本に帰ると「アメリカあげます」という本を書いて中島に送って来た。まだ仕上がっていない曲の作成中の中途半端なところを聴いて結論を出したらしく、中島が落ちぶれてまともに音楽にとりくめていないように思って中島を名指しでがんばれ、と励ましていた。ちゃんと完成してから聴いて批判してほしかった、と思う。

やがて数曲、形ができてくると宮下富実夫にプロデュースを頼むことにしたのであった。
友達関係仲間内の「なあ、なあ、」に陥らないためにプロデュース料を1ドル360円の時代に1000ドルに設定してアドヴァンスに500ドル、完成後に500ドル支払った。それでプロデューサーとしての宮下富実夫は真剣に仕事としてわたしたちのアルバムのプロデュースに全力で取り組んだのである。
fumio

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カリフォルニアサンシャインagainその37
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宮下フミオは来るものは拒まずだったのでかれのスタジオ兼ホームは日本からやってくる、ジョー山中、勝新太郎、ミッキー・カーチスのバンド「サムライ」のメンバーなどアーティスト仲間の寄り合う拠点として機能した。映画「人間の証明」で主役の黒人ハーフの青年を演じたジョー山中は家が見つかるまで居候していた。その頃米国で大ヒットしたハリウッド制作戦国ドラマ「Shogun」のヒロイン島田陽子もやって来た。勝新太郎は宮下の自宅スタジオに居候していた時、映画「座頭市」の音楽としてティアック8トラック・レコーダーに三味線を弾いてレコーディングした。杵屋の跡取りとして修業していたので弾けたらしい。コードはE一発だった。わたしは宮下に請われてその三味線に合わせてベースをレコーディングしたが満足できる演奏ができなくて残念だった。芸能界で一番洋楽のスタンダードのうまい歌手は石原裕次郎か勝新太郎かということがよく話題になったが、その勝新太郎はたった一度だけミヤシタのアコースティックギターのバックでリトルトーキョー劇場でライヴを行ったというニュースが翌日の羅府新報に掲載されたものだった。
fumio

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カリフォルニアサンシャインagainその36
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アメフトや野球、バスケットボールなどを大画面で友達とワイワイ楽しむスポーツラウンジ酒場「燈り」のバーテンダーはLAPD(ロサンジェルス警察)の女性職員が夜バイトでやっていた。それでLAPDの仲間の女性職員たちが連れ立って遊びにやってきた。どういうものかわたしの歌うウーマンウーマンがその女性職員たちに一時大人気になって彼女たちが現れるとリクエストされなくとも歌った。独身女性警察職員たちの心を打つらしかった。そしてある時同僚女性職員をアパートまで送ってやってくれと頼まれて仕事のあと、送って行ったものだった。警察関係とはいえ夜中の2時過ぎまで女性がうろついているとは…。日本では考えられない。
古い表現だがまるで万力で締め付けられるような気がした。
 背中から突然羽交い締めにあったのだ。頭の中ではジャック・ポットのようにつぎつぎにそんな冗談をしそうな友の顔が回転した。そのジャック。・ポットはついに止まって特定の像を結ぶことがなかった。わたしはふりほどこうともがいたがどうにもならない。相手の顔を覗こうとしたが見えない。時刻はそろそろ午前三時過ぎである。
 仕事が午前二時に終わって楽器類を片づけて店を出たのが二時半頃。ハーバー・フリーウェイからサンタモニカ・フリーウェイに乗り換える頃、おかしいなと感じた。後ろについていた車が離れない。不気味なものを感じた。スピードをあげていつものランプ(降り口)に達した。フリーウェイを降りるとさっきの車は随いてこなかった。安心して家の前に停車した。後ろの座席に置いたギターを取りだそうとした、そのときだった。だれかが突然わたしを後ろから羽交い締めしたのである。リーウエイを降りてからも随けられていたのだ。こうなれば必死で戦うしかない。友だちの可能性を捨ててむちゃくちゃに暴れた。やっと相手の腕がゆるんだ。そのすきに回転して向き直る。対峙すると相手は見知らぬ白人であることがわかった。その頃、世間では連続強姦魔事件が取りざたされていて後ろからわたしの長髪を見て女性と勘違いして襲ってきたのかと思った。白人はおまえはキムじゃないのか、とわけのわからないことをいいながら逃げて行った。翌日、隣のアパートの住人が二階から見ていたけれどよく助かったね、うちの子供にもカンフーを教えてくれ、と頼まれた。わたしはカンフーは知らない、と断ったものだった。
fumio

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カリフォルニアサンシャインその35
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その頃、ホールドアップ事件が多発していた。店のドアが突然開いて、脅しにエンターテイナーの頭上に一発発砲する。
ピストルを突き付けられると対応がむづかしい。あなたならどうするだろうか。Los Angeles Police DepartmentLAPD(ロス市警)のそばにあったスポーツラウンジ酒場「燈り」のマスター、ステイーヴ氏は武闘派で犯罪抑止効果のためにカウンターの下にでっかい拳銃をわざと見えるように置いていた。いつでもホールドアップに対処できるということだった。ところがある日、「フミオちゃん、昨日ヤラレタ。売上を持って外に出たとたん後ろから首にピストルを突き付けられた。」と残念がっていた。護身用登録済みの銃は50ドルぐらいで登録していない銃は裏の組織で10倍ぐらい。そんなアソールト銃と呼ばれる殺傷用銃が犯罪に使用されるのだった。憲法修正2条で自衛のための武器の所持は認められている国なのでクラブの経営者は気を抜けない。
拳銃などの武器は普段から射撃練習場で拳銃の扱い方を習熟しておかないと簡単には使えない。
わたしがベースとボーカルを頼まれてやっていたバンド「ケンちゃん」のリーダー谷岡ユキオは拳銃を3丁身に着けていた。脇に1丁、腰に1丁、脚に1丁。それぞれ用途の違うものをわたしに見せびらかして自慢していた。かれはラテンギター奏者でワンボックスカーに仕事用のボーカルアンプ、ラテンギター、譜面立て、などなどをいつも積んでいたのだがある時、アパートの地下駐車場でメキシカンたちが車のドアを開いて盗もうとするのを目撃した。それで車が揺れるとアパートの部屋で寝ていても警報が鳴る仕組みの防犯ブザー装置を装着しておいて待ったのだ。何日かして夜の仕事を終えて就寝中、枕もとのブザーが鳴った。きっと何者かがワンボックスカーをこじ開けようとしているのだ。ピストルをつかんで階段を駆け下りた。メキシカンのワルどもが車に集まって開けようとしていた。ユキオが走ってくるのに気づいて逃げようとした。ユキオは何発もぶっ放した。普段から射撃練習場で拳銃の扱い方は稽古していたのだが残念ながらというか幸いというか、当たらなかった。それでも脅しにはなったらしく以来、メキシカンのワルたちは近寄らなくなったという。当たっていたらどうなったのだろう、と思ってしまう。
fumio


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カリフォルニアサンシャインagainその34
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ある朝、妻が泣きながら帰ってきた。
息子を保育園に送って行って帰りの歩道上で正面から来るマイケル・ジャクソンに似たかっこいい黒人の若者を不審に感じて避けようとした。しかしそれは人種偏見による人種差別行為にあたるのではないか。それはよくないのではないか。あなたならどうするだろうか。ごく自然にゆきすぎるだろうか。しかし自然には行き過ぎられずすれ違いざまに肩に下げていた30ドル入りのポシェットを引きちぎられたという。追いかけたけれど逃げられたらしい。わたしは朝、2時にクラブのエンターテイナーの仕事を終わって帰宅して眠っていたので起きて警察に連絡したりしたが、やってきた警官は、それで済んでよかったということだった。当時はヒルサイドストラングラーと呼ばれる凶悪連続殺人事件が起こったりして近所の多くの家の窓は格子を取り付け防犯工事していた。格子のない窓を破ってだれかが入ってきて殺害するのだ。銃を規制しても凶器が変化するだけかもしれない。
fumio


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カリフォルニアサンシャインagainその33
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LAPD(ロス市警)の男性署員たちは夜の巡回パトロールのコースを決めていた。わたしが毎日午前2時にナイトクラブの仕事が終わって立ち寄る同じドーナッツショップで顔を合わせた。
署員たちは毎日夜12時ぐらいに目をつけている麻薬売人の家にパトカーのヘッドライトを当てる。泳がせていてもいつも見張っていることをわからせるためである。ある日系女性の家にバーバラ・ストレイサンドの歌がうまい白人女性がいるから来てほしいというのでギターを持って夜10時頃友達と訪れるとLAPDの男性署員たちが夜の巡回パトロールにやってきた。毎日その時間にその家にパトロールにまわって来るという。しばらく防犯の話をしてからわたしのギターに気づいてわたしたちに歌を歌えと所望した。それで真夜中のライヴになった。白人女性は追憶を歌いたいというのでギターで伴奏した。驚くほどうまかった。プロの歌手を目指しているらしい。署員たちは喜んでわたしにも歌えと迫る。「喜びの世界」スリードッグナイト「プラウドメアリークリーデンスクリヤウオーターなどロックを吼えるように歌うとびっくりして、もっと静かに歌ッテ、という。羽目を外し過ぎてはいけないと自制したらしい。それでも少しは日頃の凶悪犯たちと対峙する時の厳しいストレスが吹き飛んだら良かった…。
fumio



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カリフォルニアサンシャインagainその32
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宮下フミオの自宅、カールトンウエイスタジオをわたしが初めて訪れたその日、ショーケン、ジュリーのダブルボーカルバンド「ピッグ」やミッキー・カーチスの世界ツアーバンド「サムライ」、ガロの「学生街の喫茶店」「太陽にほえろ」「ガンダーラ」などでドラムを叩いた原田裕臣(ユージン)が宮下家での居候生活を打ち切って日本に帰って行った。楽器用ジェラルミンケースを記念に中島茂男に譲ってくれたのでマイク、ドラムマシン、フェイズシフター、ファズ、オーバードライブ、テープエコーマシンなどエフェクター類を入れて運ぶのにずいぶん役立った。世界的にデイスコが流行った頃、わたしと中島のふたり一緒にエンターテイナーとして入っている白龍飯店(インペリアルドラゴン)でデイスコダンスパーテイを開催したいというオファーがあった。インペリアルドラゴンは台湾系の店でチャイナ美人ホステス全員わたしたちのファンだったので英語のポップソング主体でパフォーマンスできた。女性マネージャーはオーナーの娘で気が強くて中島が交渉してもこちらの話を半分も聞いてくれなかった。普段の仕事ではドラムマシンでリズムを刻むのだがデイスコダンスならドラムマシンというわけにはゆかない。本物のドラムスでなければかっこよく客とまともに踊れない。ところが頼むべきドラムスのユージンは日本に帰ったので困った。それでもペイが150ドルと良かったのでダンスパーテイを引き受けてドラムスは本職ではないけれど一応叩くことができる宮下フミオに白羽の矢を立ててドラムを頼んだのだった。わたしはベースを弾きながら「ホールドオン」「エボニーアイズ」「プラウドメリー」「カントリーロード」「ウーマンウーマン」「ホテルカリフォルニア」などなど踊れそうなアメリカンヒットナンバーをなんでもかんでも歌った。チークダンス用に思い出のグリーングラス」マイウエイなどを歌った。白龍飯店(インペリアルドラゴン)はデイスコパーテイのたびに大盛況だったので大騒ぎのうちに大家族で食事をしたあとぱっと消える、食い逃げなどの被害によく遭っていた。女性マネージャーがまたやられたと悔しがっていた。
fumio



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カリフォルニアサンシャインagainその31
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 そんなある日、中島茂男は宮下フミオのバンドのライヴでギターを弾くから見に来てくれという。そのバンドはベースがロシア系白人でキーボードが黒人の混成バンドだった。その黒人はのちに喜多嶋舞の父、喜多嶋修のライヴでもキーボードを弾いていた。固定メンバーではなくその時その時でセッションメンバーとして集めるようだった。宮下は空手の形などを取り入れた東洋的な動作をして歌っていた。集中力がすごくて観客を惹きつける妖しい魅力を発していた。それは普通のロックバンドの範疇に入らない音だった。一緒に出るバンドはアメリカらしいハードロックやポップロックが多く宮下のバンドは異彩を放っていた。それはアメリカツアーの一環だったらしい。のちにバンド仲間となったわたしもそのバンドにベースプレイヤーとして参加することになったのである。
 そうこうするうちに宮下にどこかの町のコンヴェンションセンターでのライヴの話しが入った。
そのライヴで使用するアンプの話しになった時、「島ちゃんがヤマハの初期のギターアンプをもっているから喚ぶ」と宮下が言った。島ちゃんとは本名、島健 で、ミッキーカーチスのバンドで渡米してそのままアメリカに滞在し、チック・コリアやジャズトランペッター、アル・ヴィズッティーのバンドに参加しているピアノ及び、キーボードプレィヤーだった。やってきた島は「昔、ギタープレィヤーだったからそのギターアンプを持っているんだ」と言っていた。それがその後、日本でプロデューサーとして活躍してレコード大賞曲ツナミのストリングスアレンジなども行うことになる島の若き日の姿だった。
そのようにして「宮下フミオのシンセとヴォーカル、中島のギター、島のキーボード、わたし山下のベース、」という布陣のツアーバンドが始動したのだった。金儲けではないので出演料はなくパフォーマンスを行うこと自体が目的だった。ライヴ会場のコンヴェンションセンターに入ると次々にパフォーマンスが始まる。やはりアメリカはカントリーミュージックの国で、土地柄か他のバンドはほとんどカントリーバンドだった。その中で宮下文夫のバンドの演奏はかなり異質だっただろう。受けたのかどうかよくわからなかったけれど夜のクラブや酒場ではないアメリカの一般民衆の息吹に触れる経験ができて面白かった。アメリカツアーは各地のカントリークラブ、宗教施設、大学、アーケード、人の集まる所なら呼ばれるとどこででも演奏したが出演料を要求することはない。宗教の形ではなく人々と音楽で一体化してスピリチュアルな時間と空間を共有することが目的だった。日々の生活に要する費用は夜のクラブや結婚式その他のパーテイなどのイベントの演奏で捻出した。
そんなある日、宮下文夫が「今度、30才になるから改名する」と言い出した。日本にいる母親が、これまでは文夫で良かったけれど30才からは字画がもっと多いほうがいい、と言ってきたという。それで姓名判断で「富実夫」に決まったのであった。こうしてわたしたちの名前はずいぶん似た字面になった。だれがfumio miyashitaとfumio yamashita、 宮下富実夫と山下富美雄、こんな同じような名前をもつふたりを中島茂男という中の島を介して同じ時期に同じ場所に招き、同じ仕事をさせる計画を立てたのだろう。そしてのちにわたしの誕生日(2月6日)が宮下富実夫の肺疾患での命日(2月6日)となることもすべて経綸(しくみ)であったのだろうか…。それはただの思い過ごしだろうか。
fumio

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カリフォルニアサンシャインagainその30

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中島茂男とふたりで仕事を始めた数軒のクラブでわたしと中島がアコースティックとエレクトリックのギターで一緒に演奏していると、ギターでオカズを入れたりする時、互いのフレーズがかぶることがよくあった。それで中島がわたしにアコースティックギターのかわりにベースを弾いたらどうか、と提案した。わたしはなるほどと思って次の日、楽器は古いほうが木の質が良いので中古楽器を探して日本の雑誌でもオールドギターの聖地として紹介されているサンセット通りの質、古道具店(ポーンショップpawn shop)をまわった。さすが世界のロックの中心地、何軒かまわるうちに目当てのロックベースの定番、 フェンダー・プレシジョン・ベースの状態がいいものがあったのですぐ購入して帰って一日中、教則本と首っ引きで基本的な弾きかたを覚えてその夜の仕事に使った。言い出しっぺの中島は演奏するそれぞれの曲のコードフィーリングが強まり曲想が深くなることに驚いていた。しっかりしたベースの上に構築する音楽は生きてくる。やはり何事も支えが大切であることを思い知った。突然クラブ「エンカウンター(邂逅)」で無理矢理のように邂逅させられて組み合わされて始めたバンドがやっとプロらしい本物の音を出し始めたのであった。ベースの重要性はよほど感性が優れているか実際に使用してみないとわからないものである。ベースは基音を弾くので弾きながら歌を歌うと声が安定するのだ。そんなわけでわたしは以来ビートルズのポール・マッカートニーのようにベース弾きボーカリストになったのである。
先日、シゲさんがわたしの家に寄った時、セッションをしたのだがわたしがメロデイを歌っていてここでオカズを入れてほしいと思うとロサンジェルス時代と同じように以心伝心で入れてくれた。何年たっても音楽的感覚は継続していてうれしかった。
fumio



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カリフォルニアサンシャインagainその29
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中島茂男は淡谷のり子が審査委員長を務めたロサンジェルスでの「海外のど自慢大会」でフォークの歌を歌って優勝したこともあったがそれでもLA(ロサンジェルス)の音楽関係ではなかなかいい仕事がなく、外に立っていると銃を構えた男たちが射ってきて頭の上のガラスに弾丸の穴があくようなリッカーストア(酒屋)の店員をしたりしていた。あまりいい環境とはいえない地区である。それで大型クラブ「エンカウンター」のエンターテイナー募集のオーデションを受けたのであった。
昔、60年代後半から70年代初頭にかけてヤング720(ヤングセブンツウーオウ)という若者向け番組があった。今記憶している司会者は「関口宏、松山英太郎、竹脇無我、由美かおる、小川知子、大原麗子、吉沢京子、岡崎友紀 、黒澤久雄、目黒祐樹」 といった当時売り出しの若者たちだった。ヤング朝食会というトークコーナーには横尾忠則など当時を代表する新進気鋭の芸術家たちがでていた。グループサウンズブームのはしりのころで多くの若手バンドが出演していた。今も憶えているのはゴールデンカップス と改名する前の横浜のバンド「グループ アンド アイ」の演奏で日本のバンドと思えないリズム・アンド・ブルース・フィーリングをもっていて素晴らしかった。当時、若者であったわたしたちはこの番組によって時代の息吹を感じたものだ。
SFの相棒となる、中島茂男は日本時代、この番組に出演したりするミュージシャンだった。渡米後、ミュージシャン仲間だった泉谷しげるや井上陽水、山本コータロー、モップスの星勝 らが訪ねてゆくようになる。
鈴木ヒロミツが役者に転進して出身バンド「モップス」をおろそかにするようになってギターの星勝は「月光仮面の歌」を自分で歌ったりしたがアレンジを本格的に勉強して井上陽水のアレンジを担当することになって自分のアコースティックギターを中島茂男に貸しておいてロサンジェルスで仕事をする時、そのギターを使ってアレンジするようになったのである。それでわたしはホテルにそのギターを運んだものだった。
fumio


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カリフォルニアサンシャインagainその28
クラブ「エンカウンター」の支配人ジョージ氏は、プロデュース能力に恵まれて様々なイベントを企画してその開催したエンターテイナーオーデションはさながら天下一ミュージシャン選考会の様相を呈して日頃顔を合わせることのない他のエンターテイナーと知り合ったりしてコンテスト独特のある種の高揚感に包まれて楽しかった。その様子をラジオ局のサテライトスタジオと化したクラブからリモート生中継したりしてアナウンサーが番組の中でわたしになにか歌えと所望するのでわたしはその日の担当のピアニストにバック伴奏を頼んで「また逢う日まで」をライブで歌ったものだった。ギタリストは大型高級クラブ「エンカウンター」のエンターテイナー選考の選択肢にあまり入ってなかったようでほとんどのギター奏者がふるい落とされた結果そのオーデションに奇跡的にたったふたりだけ受かったギター奏者は、エレキギターの中島茂男とアコースティックギターのわたしだけだったが大繁盛していた当の「エンカウンター」が経営不振で突然つぶれるとすぐにふたりで働ける店を探してハリウッドのクラブ「蝶」やLAPD(ロス市警)の隣の店「燈り」やダウンタウンのリトルトーキョーの白龍飯店(インペリアルドラゴン)に一緒に出ることにした。それである日、中島の長屋でビートルズの「No where man」など数曲練習していると、ヨーロッパツアーを終えてアメリカツアーにやって来たファーイーストファミリーバンドの宮下フミオが生まれたばかりの子供(ジョデイー天空)を抱いてやってきた。それが宮の下と山の下のフミオと中を取持つ中の島で構成されるバンドSFの始まりだった。
fumio

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カリフォルニアサンシャインagainその27
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その「SF」というプロジェクトの相棒中島茂男、シゲさんはわたしが日本へ帰ると、ロサンジェルス、リトル東京の旅行店キャラバンサライを手伝って、社長が店を閉めるというからフロリダに移ってキャラバンセライオーランド旅行社をやりだしたのだった。そしてギターバンドWajindenを作って音楽活動も続けて
米国フロリダ州オーランドのEolaドライヴにある公園にやってくる動物たちの生態を捉えて音楽化したり2014年2月に奥さんのAkikoさんが喉頭癌で亡くなってからRecollection (在りし日)という曲を作ってコンサートで演奏している。
そして、昨年師走10日の朝、Wajinden music performance - Orlando Japan Festival 2023日本公演に来たシゲさんから突然、行ってもいいかと電話がかかってきた。
OKすると午後2時にタクシーでシゲさんがひとりで来て、シゲさんはコーヒーを飲みながらわたしのギブソン• アコースティック• ギター• ハミング• バードを弾き色々ロサンジェルス時代のレパートリー思い出のグリーングラスマイウエイホテルカリフォルニアカントリーロードプラウドメアリーなどをセッションした。シゲさんに伴奏してもらうのは本当に久しぶりで楽しいライヴだった。終わるとこれから中目黒に行くというので驚いた。音楽活動は忙しくて大変らしかった。
fumio

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agan26  


カリフォルニアサンシャインagainその26
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「未知との遭遇(Close Encounters of the Third Kind)」 という映画が1977年11月に公開された。翌年、その題名にちなんだような「エンカウンター(Encounter)」という日系の大型クラブがロサンジェルスのダウンタウンに開店するのでエンターティナーのオーディションがあるという噂が流れた。行くと多くのミュージシャンが集まっていた。
ロサンジジェルスのエンターティナーといっても色々でピアニスト、ギター奏者、ハープ奏者、ジャズバンド、マリアッチ、ロックバンドなどなど店や地区、人種によって様々である。当時エンターテイナーとして活躍していたロサンジェルス中のピアニスト、ギタリストが集まって覇を競った。さながら天下一ミュージシャンコンテストのようだった。ピアニストが多くギターではレコード大賞を獲得した「シクラメンのかほり」を弾き語りする人が多かった。順番にパフォーマンスをしてゆき、わたしも順番が来ると「シクラメンのかほり」をギターで弾き語りした。支配人は一週間分のエンターティナーを選考してそれぞれに曜日をあてがった。選ばれたのはやはりほとんどがピアニストだった。日本でレコードを出している歌手もいた。結局、ギターで選ばれたのはアコースティックギターのわたしとヒゲが印象的なエレクトリックギターの中島茂男だけだった。マネージャー、ジョージ氏は最後に、君たちはふたりでやってくれという。エンターティナーが二人でやるというのは聞いたことがない変な話しだったけれどバンドの入っている雰囲気がして店が華やぎ演奏が豪華になる。開店してしばらく店は大盛況だった。客が帰ったあと多くのホステスたちがチップの取り分争いでつかみ合いするのを目のあたりにして驚いたりしたものだった。
けれどしばらくすると客足は遠のきなぜかあっけなくそのクラブはつぶれてしまったのである。それでヒゲの男、中島茂男(シゲさん)とふたり一緒に仕事を探すことにした。ふたりで仕事する方が楽しかったから。何軒もまわり広めの店に二人でひとり分のペイで数軒の店に入った。それでなんとか食ってゆけることになった。あの「エンカウンター」、つまり「邂逅」という名前のクラブはわたしたちを巡り合わせるために一瞬だけ存在した店であった。あの支配人が一緒にやれなどと奇矯なことを言わなければ「SF」というプロジェクトは生まれなかったのである。
fumio

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カリフォルニアサンシャインagain その25

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 わたしの妻となることになったこの女性は日本で教習所に通って自動車運転免許証を取得していた。運転免許はこの国では身分証明書として頻繁に必要になるから、わたしごときが人に教えるのはおこがましいけれど米国の運転免許取得のためにと、日本とのルールの違いの認識や安全確認の重要性を力説してしばらく稽古につき合った。すると78点で合格した。運転もうまいといわれたという。良かったことは良かったけれどなんだか気が抜けた。当たり前だけどわたしの場合ほど心配することはなかったらしい。
 わたしたちは結婚式場を探した。どこがいいかさっぱりわからなかった。日本人の牧師さんがやっている教会に頼んでみようかと相談してセントメアリーという教会を訪ねた。しかし信徒さんでなければだめです、と期待は虚しくあっさり断られた。それでイエローページを調べて日本の芸能人がよく結婚しにやってくるという ガラスの教会を見つけた。そこは寄付金(ドーネーション)を納めれば良いということだった。電話すると土日の寄付金が一番高くて金曜日が割安だったので1978年2月17日(金)に決めた。結婚記念日はそんな経済的理由で決まった。
 そのランチョー・パロス・ヴァーデス地区にある太平洋に面した丘の上のスエーデンボルグ系の教会、Wayfarer’s(徒歩旅行者)Chapelは帝国ホテルの建築家、フランク・ロイド・ライト(1869-1959) がなんと日光東照宮大猷院(たいゆういん)を模して設計したものだった。
1978年2月17日(金)にロサンジェルス・ランチョー・パロス・ヴァーデス地区にある太平洋に面した丘の上のスエーデンボルグ系の教会、Wayfarer’s(徒歩旅行者)Chapel(ガラスの教会)で英語学校で出会ったふたりが式を挙げた。
そこは帝国ホテルの建築家、フランク・ロイド・ライト(1869-1959) が日光東照宮大猷院(たいゆういん)を模して設計した教会だったのでサイモンとガーファンクルのソー・ロング・フランク・ロイド・ライト」を聴くと思い出す。
fumio


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