monologue
夜明けに向けて
 



そのころ、GTOのラジエターから水が漏れてオーバーヒートすることが多くなってしばらく走るとすぐ停まるようになったのでフォード社のピントーという中古コンパクトカーを手に入れた。
 1978年1月の小雨降る日、授業が終わってオリンピック通りを東に走ってウェスターン通りとの交差点の信号が黄色になって左にターンしているとき、信号が変わる前に渡ろうとスピードをあげて突っ込んできた車と衝突した。フォード・ピントーは数回回転して止まった。わたしたちは少しの間気絶していた。やはり左折が問題だったようだ。
 バス停で待っていた人々が一斉に集まってきて介抱してくれる。それはほとんどがアフリカ系アメリカ人(黒人)だった。身動きできずボーとしたまま、ただ親切な人たちだと感謝した。救急車がやってきて運び込まれたUSCジェネラルホスピタルで診察を受ける。わたしたちは額をフロントガラスにぶつけ,
わたしは額に入った割れたガラスの破片をとってもらい、妊娠4ヶ月目だった妻は目の上が膨れたが、他に異常がなく安心した。
 翌日、ジャンク・ヤードに車を見に行くと完全にクラッシュして使いものにならないことがわかった。トランクの中にあったギターその他の仕事道具を調べるとだれかがすでに持っていってしまっていた。日本語の譜面まで盗らなくても、と思った。妻は身につけていた財布をとられていた。車の中を何度探しても見つからなかった。だれかが介抱しているふりをしてとったらしい。そのころのわたしたちは気絶している間も気を抜けない、ということをまだ知らなかった。
fumio





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