NHKの「ファミリーヒストリー」で自分の家の父母の過去を調査して明らかにしているのを見て、はたしてわたしの父山下幹雄はどのような青春時代を過ごしたのかと思った。昔の写真を見ると飛行第90戦隊第一中隊の戦友会の旅行に毎回よく行っていた。父は戦争中のことは整備工というだけで他のことはまったく語らなかったが、この飛行第90戦隊第一中隊とはどういうものであったのかインターネットで調べると、
「第3飛行集団司令部
昭和14年(1939年)9月1日 北支那方面軍戦闘序列の中で南京に司令部を編成、航空兵団司令部の任務を引き継ぎ、次の航空部隊を指揮統率した。
第1飛行団司令部
独立飛行第10中隊
独立飛行第83中隊
飛行第90戦隊
第15、第17、第18航空地区司令部
第91、第92、第96飛行場大隊
第1、第67、第68、第86飛行場中隊」というような組織になっている。
そしてすこしややこしいが「昭和14年9月1日 航空兵団司令部隷下部隊の過半数を引き継いで、第3飛行集団が編成されたが。この時、第3飛行団は分離して中支那派遣軍戦闘序列に、編成を解かれた第4飛行団に代わって編成された第21独立飛行隊は南支那第21軍戦闘序列に入る。
第3飛行集団司令部は、昭和16年11月6日北支那方面軍から南方軍直轄となり、カンボジアのプノンペンに司令部を移設、昭和17年4月15日改編して第3飛行師団司令部となる。
第3飛行師団司令部は、昭和17年7月10日支那派遣軍戦闘序列に入り再び支那に帰り、昭和19年2月14日第5航空軍司令部となる。」」という記述があった。
具体的にどんな作戦を実行したのかとみると「1942・4・27 (浙かん作戦)第2中隊は広東、第1・3中隊は大場鎮へ展開 広東・大場鎮」とあった。この日第一中隊は大場鎮(だいじょうちん」に展開している。(浙かん作戦)の浙(せつ)は浙江省で「かん」は江西省を意味する。大場鎮は上海の守備の重要な陣地で簡単には落ちず10月末に落ちて11月の初めに上海地区は日本軍の占領下に入る。20才の山下幹雄はこの頃飛行機の整備兵として従軍していたのだ。青春のまばゆい日々を中国本土での戦闘の中で過ごしていたのだ。どうして父は戦争中のことを家族にはまったく語らなかったのかわからないが多感な青春の日々をともに過ごした戦友たちは一生の友であったらしい。
fumio
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