行政書士中村和夫の独り言

外国人雇用・採用コンサルティング、渉外戸籍、入管手続等を専門とする26年目の国際派行政書士が好き勝手につぶやいています!

もしかしたら・・・。

2008-04-21 01:42:54 | あの頃の東京って?

 昭和37年小学校2年生の秋、私は慢性の腎炎であることが分かり、突然長期欠席せざるを得ない事になったのでした。

 食事から塩分摂取を極力さける為に、御飯・味噌汁という朝食から、パン・コーヒーという食事に切り替えたのでした。そして、私だけには、更に無塩醤油、無塩バターを使った特別食を母が別途に作ったのでした。それは、お世辞にも美味しい食事ではありませんでしたが、作った母はさぞかし大変だったと思います。また、病の原因の一つであると思われた扁桃腺も切除しました。

 まだ遊びたい盛りの子供にとって、学校を長期欠席せざるを得ない状況はとても辛いことでした。その上に、学校の授業を受けられなかったので、3年生へは進級できないと、年明け早々担任の先生に言われたのでした。私は、父母という家庭教師によって自宅学習することになったのでした。父は、算数と理科を担当し、母は国語と社会と担当しました。しかし、本当に一番辛かったのは、今思えば実は父や母だったのでしょうね。

  私が発病したのは、ご近所に住む大学生が私と同じ腎臓病で亡くなった直後の事でした。ですから父や母にとってはさぞかし深刻で、本当に必死だったのだと思います。そして、私も子供ながらに、その父母の真剣さを理解したのでした。”また皆と遊びたい!XXさんのお兄さんみたいに死んじゃうのはいやだ~” 直らないかもしれない病を罹った8歳の子供の正直な気持ちでした。

 1日でも早く学校に戻りたかった私は、味が無いような不味い食事でも我慢して食べました。また、父母が教えてくれた勉強もどんどん進んで取り組みました。結果、算数と国語は短期間で5~6年生レベルまで進んでいたのでした。

 学校を休んで6ヶ月近く経った3月のある日、担任の先生が訪れて、私の健康状態と自宅学習の状態を見に来られたのでした。4月からの3年生としての通学については、医師からは一定の条件であれば、通学を再開しても構わないとの許可が出ていたのでした。一方で、担任の先生は、私の学力の進捗の事を最も心配していたようでした。しかしながら、算数、国語の進捗具合を見て、これなら進級に全く問題は無いと、私の3年生への進級を許可して頂いたのでした。

 昭和38年4月、私は半年ぶりに学校に通うことができたのでした。しかし、飽くまでも特別扱いでした。体育はすべて見学、給食は食べずに午前中の授業4時間で帰宅していたのでした。しかし、検査結果が良好であったことから、午後の授業への出席も、その後直ぐに医師は許可してくれたのでした。但し、給食は別の食事とすること、体育の授業に出ない事が条件でした。

 母は、毎日私に塩分を控えたお弁当やサンドイッチを届けてくれました。今でもその姿は決して忘れる事はありません。私が発病した年の夏のラジオ体操の日に付いて来て、そのまま居着いて飼い犬となったテリー系の雑種犬を連れて、毎日欠かさずやって来てくれたのでした。そして、いつも学校の校門の門扉に犬のベルトを結びつけ、校庭を弁当箱を抱えて縦断してやって来る母の姿を、私はいつも窓辺から眺めていたからです。私が気が付かなくとも、同級生が”中村君の弁当が来たよ!”と教えてくれたのでした。その手作り弁当は、旨味の基本というべき塩分が殆ど含まれていない特別食でしたから、決して美味しい弁当ではありませんでした。しかし、私は我慢して食べたのでした。でも甘い卵焼きだけは美味しかったと記憶しています。

 そして、1年後の昭和39年3月、医師はついに腎炎から完治した事を宣言して、通常通りの生活を送ることを許可してくれたのでした。病に倒れてから実に1年6ヶ月後の事でした。当時、直らない病と言われていただけに、本当によく回復できたものだと今でも思っています。年老いた父は、今なお健在ですが、母は23年前60歳を前にして亡くなりました。父と同級生で、医学書を父に見せては今後の治療方法を丁寧に説明していた名医のM先生も、70歳を前にして既に亡くなられています。

 こんな特別な思い出のある小学校も、もうすぐ跡形もなく取り壊される運命です。やはり、寂しい限りです。

コメント (6)
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