産経新聞の「正論」欄で、平川祐弘東大名誉教授の主張を読んだ。
教授は宗教対立の時代こそ「共存」は必要と主張されており、日本人の多くがそうであるように神仏を同時に拝むような姿勢は今こそ必要なのではと述べられているが、1神教であるキリスト教とイスラム教で唯一神が複数存在することなど絶対に認めないであろうことから、それが実現する可能性が無いことには触れられていない。神道とは何であろうかと考えた。神道には出雲系と伊勢系の宗派があるが、拝礼の所作が異なる程度で差異は無い。なぜなら神道には教義・教典が無く、唯一の教義らしきものは「罰が当たる」と云う事だけのように思えるが、何をすれば罰が当たるのかは個人の内なる規範に委ねられているために、時代時代によって神罰を受ける対象は変化したものと思う。仏教が言う輪廻転生の哲学や解脱に至るための修法強制もなく、1神教に見られる排他性もないことこそ神道の神髄であり、日本人が等しく持っているものではないだろうか。1神教については、それぞれの預言者が神と対話したことが原点とされているが、預言を教義として紙に書いたときから、本来宗教が持つべき内なる規範から絶対的な社会規範に変質して、その自縄自縛の結果が現在の宗教対立の原因になっていると思う。
窮屈な教義を忌避し他者の主張(異文明)に寛容という日本人の神道的な精神構造と神道が絶対的な社会規範でなかったことが、明治維新の原動力となり大東亜戦争後の復興を成し遂げたものと思う。反面、異文化への攻撃を非とする信条が、”Noと云えない日本人”を生んだともいえるのではないだろうか。功罪併せ持つ神道について再考・再発見することが必要と思う。