問題提起としては面白い。ただ「憲法学批判」ではあるが「憲法学」の側と議論の土俵がすりあってなさそう。
筆者が指摘する「憲法学者コミュニティの知的閉塞」という批判は幾分かは当たっているようにも思うが、憲法学者の側からの反論を封じるオールマイティなカードになっているので、結局、川の両岸から石を投げ合うことになる。
またそれが今の憲法改正議論の置かれている状況と似ているところが残念。
憲法学をめぐる指摘として特に面白かったのは以下の部分
戦前の日本において、美濃部達吉の憲法学は、エリート層の国家運営を正当化する「密教」の論理を提供していた。しかしその憲法学は、「顕教」としての国体論者たちの大衆扇動によって、排撃された。敗戦の「革命」をへた後、戦後に再生をはかった憲法学は、今度は国家体制の「表」の部分の看板を掲げる役割を担った。そして「裏」が「表」を浸食しないように「抵抗」をし続ける機能を果たすことになった。
この仕組みが最も安定しているように見えたのは、冷戦時代、特に高度経済成長以降の時代である。軽武装・経済成長を推進する国家政策と、「抵抗の憲法学」は、奇妙ではあるが絶妙の組み合わせを持った。(中略)
冷戦終結後の四半世紀の間、「戦後日本の国体」が崩壊する兆しは見られない。他方、冷戦時代と全く同じやり方で「戦後日本の国体」が維持されるという幻想の非現実性は強く意識されることになった。
著者が不満なのは、日本国憲法には改正の手続きが定められているにもかかわらず、改正の議論をするときに憲法学者からは現行憲法の解釈論以上のものが出てこない--とすると結局ほとんどの改憲案に原理的に反対することになる--という部分にあるのではないかと思う。
ある改正案に対して、そう変えることがどのような影響を及ぼすことになるのか、ということをニュートラルに提示するのも憲法学者の大事な役目のように思うのだが。