現在の安保法案やそれに対する反対の声がどうもお互いにずれてるのではないか、と思う人には参考になる。
本書は社会学者の大澤真幸と憲法学者の木村草太の対談。
安保法制の議論の経緯について、少し長くなるが引用する(以下すべて木村氏の発言。太字は筆者)。
・・・2014年の5月15日に安保法制懇の報告書が出ました。そこから11回の与党協議を実施して、7月11日に閣議決定がなされました。その後・・・衆参両院の予算委員会が閉会中に開かれて、そこで閣議決定の意味を問うような与野党の議論が行われたわけです。
まず、安保法制懇の報告書がどのような構造になっていたかというと(中略)
国際法上、許された武力行使なら何でもOKという第一の解釈は、安倍首相が5月15日段階で否定しています。ですから、第二の解釈に基づき、日本の自衛のために必要最小限度の範囲で、どこまでできるかが議論されたのが、5月15日から7月1日までの与党協議であったということになるかと思います。
閣議決定のかたちが見えてきたのは6月末です。そこでは、安保法制懇の議論はほぼ無視されて、公明党とどこで妥協できるかというのが議論の中心になってしまいました。そうした中で、終盤の6月末に「日本の存立を脅かす事態」であれば、武力行使ができるというフレーズが登場したのです。
・・・実は従来の政府解釈においても、個別的自衛権の行使を許容する根拠は、「日本の存立を脅かす事態であれば、日本政府にはそれに対処する義務がある」というロジックだったわけです。 では日本の存立を脅かす事態とは具体的に何を指すのかといえば、日本への武力攻撃があった場合が該当するだろうから、そういう場合の武力行使は日本国憲法も許容しているはずだと、こういうふうに議論が展開していきました。そして日本への武力攻撃を排除するというのは、国際法の観点からすると個別的自衛権の行使に該当するので、国際法上も可能であるというのが、これまでの解釈の構造です。
(中略)
一般的に、主権国家の政府が持ち得る権限には、「行政」「外交」「軍事」という三つのカテゴリーがあります。しかしさきほど憲法73条を説明したとき(*)にも少し触れましたが、「行政」というのは国内で主権を行使する作用です。「外交」とは、国内主権の行使ではないので、狭い意味での行政には含まれない作用ですが、相手国の主権を尊重して行う作用と定義されます。最後に「軍事」というのは、相手国の主権を無視し、制圧する作用のことです。
(* 憲法73条 には内閣の権限として「一般行政事務」「外交」「条約締結」などはあるが、「軍事」の規定はなく、憲法9条の解釈にかかわらず対外的な武力行使は憲法に権限として列挙されていないので、集団的自衛権を行使することはできない)
(中略)
さて、三つの作用のうち、日本の主権を維持するための個別的自衛権の行使は、日本の国民の安全確保ですから「行政」に含まれます。また、日本が外国のために技術協力するとか・・・武力行使に至らない範囲でPKOに協力するとか条約を結ぶといった行為はすべて「外交」に含まれます。そして、外国の防衛援助のための武力行使や、国連軍への参加、あるいは侵略行為になると「軍事」になるわけです。
この三つのカテゴリーを踏まえると、・・・「日本の存立を脅かす事態」とは「日本への武力攻撃があった場合である」というのは当たり前のことです。
ところが、この6月末以降に登場したのは、「ある外国への武力攻撃によって、日本の存立を脅かす事態が生じれば、それに対応できるはずである」という議論です。
・・・しかし・・・具体的状況がきわめて考えにくい。・・・たとえば、在日米軍基地への攻撃がなされた場合には・・・「ある外国」への攻撃でもあり、それと同時に・・・日本への攻撃でもあります。
法的に言えば、個別的自衛権の行使として説明してもいいんですが、集団的自衛権の行使として説明しても、間違いではありません。ですから、その範囲で集団的自衛権の行使を認めるというのは、要するに個別的自衛権の行使として説明できる場合は、集団的自衛権の行使をしてもいいですよ、ということになる。閣議決定の文言をていねいに読めば、そういう内容になっているんですね。
この閣議決定は公明党と内閣法制局が下書きをしたと言われていますが、彼らは、現行憲法のもとでは集団的自衛権の行使は不可能だ、従来の政府解釈を超えるような憲法解釈は不可能だ、という立場です。従来の枠内で手段的自衛権をやろうとするなら、個別的自衛権の行使として説明できる場合には集団的自衛権の行使を認める、そういうふうにやるしかないわけですね。実際、7月14・15日の公明党の質問に対して、法制局長官が答えている内容を見ると、完全にそういう応答になっています。
ところが、安倍首相の発言などは、石油が日本に入ってこないことも日本の存立を脅かす事態だと言っていて、いわば、その「あてはめ(適用)」がずれているというか間違っているんです。ですから、「基準」のレベルでは、完全に公明党と内閣法制局の手のひらで踊っている安倍政権なんですが、安倍首相自体はこれで何でもできると思っているという、非常に不可思議な事態が生じているということです。
同時に木村氏は「護憲派」の議論のありようにも問題があると指摘する。
私たちのもっと上の世代の憲法学者は、まさに(注:アメリカに対する敗戦の)否認の結果として日本国憲法の普遍主義に逃げたということがあるように思います。これに対して私たちの世代(注:木村氏は1980年生まれ)は歴史的文脈を全く無視して、日本国憲法に書いてある普遍的な価値を、当然の基本原理として理解してしまっているところがあります。
そこには善い面と悪い面があると思います。善い面とは、「普遍」は「普遍」として捉え、特に負い目を感じずにいられるということです。ただ悪い面としては、そういう議論はどこかしら上滑りをするところがあるし、歴史的経緯でものをいっている人に対して、冷たくなってしまうという部分があります。
今のお話(注:集団的自衛権の議論にあたって、自国の利益のみを考え、国際公共価値の議論が抜け落ちているという大澤氏の指摘)は、集団的自衛権賛成派と反対派の両方にいえることだと思います。集団的自衛権に関して、メディアの中でいちばん優勢だったのは、結局、アメリカに見捨てられていいのか、という賛成派による議論と、戦争に巻き込まれていいのかという反対派による議論でした。
賛成派は、アメリカに見捨てられたら日本はやっていけないから、アメリカの51番目の州として認めてもらうために、集団的自衛権を持とうという。それに対して反対派は、集団的自衛権を認めたら戦争に巻き込まれるからだめだという。激しく対立しているようでいて、いずれの議論も利己的である点は同じです。どちらも国際公共価値には目を向けていないわけです。
「こうなったら困るでしょ」という事例と「戦争法案」「徴兵制」というお互い情緒的・感情的な主張はまともな議論になっていない。
これで、法案が通ってしまって反対派の運動が敗戦気分で急にしぼんでしまうような気がする。
戦争を心配するなら、徴兵制の前に絶対的貧困や社会階層の固定化を背景にした志願兵の拡大という「自発的」な形をとってやってくるので(それは別の問題でも同様)、単に法案の成否でなく、そういう世の中にしない、ということが重要なのではないかと思う。