一寸の虫に五寸釘

だから一言余計なんだって・・・

ソーシャル・ネットワーク時代の死に方

2011-11-29 | よしなしごと
ソーシャル・ネットワーク時代の死に方

昨日とりあげた『明日のコミュニケーション』を読みながら気になっていたこと。

特にこの図が、その前に読んだ
『人はひとりで死ぬ 無縁社会を生き抜くために 』とつながってしまった。



これこそ都会におけるサラリーマン化が「家業」をなくした結果、家族それぞれが所属集団とのつながりを重視し家族間の関係が希薄になるという状況を現している。
同書はその結果家族・親族、地域を中心としたネットワークの継承がしにくくなり、無縁化を促進している。

会社や学校のつながりは老後にまで続くことは少なく、歳をとるとメンバーの葬式で出会うくらいしかなくなる。親戚だって離れていればそうだ。

その葬式にしても、家族が交友関係を把握していたときは訃報の連絡もできただろうが「個別プラットフォーム時代」になるとそれも行き届かなくなる。
さらに「無縁社会」となるとなおさらだ。


先日こんなTweetを見たが、気持ちはわからなくもない。

島田裕巳氏の言うように「死ぬときはひとり」と考えれば、葬式のときは自分は死んでしまっているのだから何も感じようがないのでいちいち気にする必要はない、と割り切るのが正解なのかもしれない。


そして、葬式よりも難題なのが墓。


最近はインターネット墓というのもあるようだ(これではないかもしれないがテレビでもやっていた)が、誰が利用するのだろうか?

故人を偲ぶ遺族が作るのなら、個別のサイトを作ったほうが安価だし設計の自由度も高い。
生前の依頼をベースにすると、どうやって告知をするのか、そもそも故人が自分の思いのたけをこめて作ったネット墓に墓参を期待できるのかなど、それ自体が自己満足の感じがする。


自己満足といえばこのブログもそうなんだが、自分が死んだらどうするのだろうと考えてみた。

放っておけば利用料金が払われなくなるので、閉鎖ということになる。
規約を見ると「当社は会員の死亡を確認できた時点を以って、前項の意思表示が当社に到達したものとして取り扱います。」とあるので誰かが引き継ぐのも公式にはダメのようだ。

駄文を積み重ねただけなので無くなってもかまわないのだが、更に歳をとるとだんだんこの世に未練がわいてくるかもしれない。
そうすると無料アカウントにうつして(無料アカウントだと永久保存というのも矛盾した仕組みだ)、死後にも誰かが駄文を読みに来てくれることを期待するなどの行動に移ることを考えるのか。

また、知人の「墓参り」を期待するなら、実名でしかも無料のFacebookやGoogle+(まだ使ってないけど検索機能が強力そうだから過去のことを振り返るのにはいいかもしれない)のほうが向いているかもしれない。


そうすると、将来的には「無縁アカウント」が増えることになるかもしれない。
ただ、死者はサイトを更新しないのでサーバーの容量は限定されるから、無縁墓の整理のようなことは必要がなく、運営側も大目に見てくれるようにも思う。

そうなればさらに、積極的に「いいね!」のほかに「合掌!」を作ってSNS墓参りができるようになると面白いと思う。



そのうち遺言でSNSやブログのIDとパスワードを託して死亡告知を依頼する、というのが流行るようになるかもしれない。



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