何かと馬を操った戦車の競争シーンのド迫力シーンが話題に挙がる映画が今回紹介する
ベン・ハー。しかし、俺に言わせれば確かにセットの豪華さやエキストラの数に圧倒され、そして血肉が沸き踊るような疾走感に興奮することは確かだが、決してそれだけが見せ場の映画ではない。むしろ本作が映画史に残る大傑作と成り得たのは、どんな困難な状況に陥っても決して諦めるな!という人類に対する普遍的なメッセージが描かれていること。俺なんかはちょっと嫌なことがあっただけで、すぐに挫けてしまう脆い人間だが、大なり小なり俺と同じような人は多い。しかも、この世の中にはあまりにも理不尽な出来事が突如として身の上に降りかかってくることが多いのに、なんだか人生に嫌気すら差してくる。あ~、本当に神様って存在するのか?
タイトル名は
チャールトン・へストン演じる主人公の名前がそのままタイトルとして用いられているのだが、ストーリー展開は主人公であるベン・ハーに次々と禍が降りかかってくることの連続。しかし、この映画のストーリー展開の巧妙なところはベン・ハーの半生とイエス・キリストの生涯がシンクロさせているところだろう。そういう意味では歴史映画として評価されている作品であるが、むしろ宗教映画としての側面を垣間見ることができる。新約聖書における印象的な場面が多く登場するので、そちらの知識があると更に楽しめるし、今まで聖書自体に全く興味の無い人でもイエス・キリストの真の偉大さが理解できるはずだ。
さて、生きるよりも死んだ方がマシに思えるぐらいの不幸が次々に訪れるベン・ハーだが、彼は如何様にしてピンチを乗り越えていくのか!それでは3時間半の大作であるが、いつもの如くコンパクトにストーリーの紹介を!
ローマ帝国の圧政により
ユダヤ人が苦しんでいる西暦1世紀初期の頃が時代背景。エルサレムにおいて、地元のユダヤ人の豪商であるベン・ハー(
チャールトン・へストン)は、幼い頃からの親友であり、今やローマ帝国の将校として帰還してきたメッサラー(
スティーヴン・ボイド)との久しぶりの再会を喜びあう。ところが今のお互いの立場は征服者と被征服者。2人の友情には大きな亀裂が走り、ある事件を切っ掛けに、ベン・ハーはメッサラーの手によって家族と別れさせられた挙げ句に、重い刑罰であるガレー船の奴隷の漕ぎ手にされる。
ベン・ハーは家族と再会するために、そしてメッサラーに復讐するために肉体的、精神的苦痛を受けながらも、ひたすら気力を振り絞って生き延びようとするのだが・・・
歴史的に悲劇が繰り返される
ユダヤ人だが、ひたすら迫害されてきたユダヤ人が望んでいたのが救世主(メシア)の誕生。その救世主こそが
イエス・キリスト。なんだかキリスト教とユダヤ人って仲が悪いよね~なんて印象があったりするが、そんな印象が強すぎることも本作の本当の凄さを理解できない原因か?まあ、俺自体がまだまだ理解できてないのに偉そうな事を書くことが格好悪いのだが。
しかし、この映画を観れば前述したように、なぜイエス・キリストは偉大なのかがよくわかる。それは水面の上を歩くことができたり、水をぶどう酒に変えることが出来たからではない。なぜイエス・キリストは十字架を背負ったのか?本作の結末から、イエス・キリストが自らの死と引き換えに、もたらした世界を考えれば偉大さがわかり、大きく感動する。
さて、ベン・ハーの方だが当たり前の事だが彼は普通の生身の人間として描かれている。大いに悩み、傷つき、復讐心に満ちてしまい、信仰心を失いかける。彼はユダヤ人を代表しているようなキャラクター設定だが、実は彼の存在は、混沌とした世界に生きる悩める現在の人間と大して変わらない。今こそ我々が本当に望むのは救世主の誕生かもしれない。
なんだか絶望するような気持ちになってしまう今日この頃だが、このような映画を観ると『あ~、きっと誰かがワタシのことをどこかで見守ってくれているんだな~』と前向きな気持ちになれる。日頃は全く他人の役に立っていない俺だが、暗くなりがちなこの世の中に、ほんのチッポケでも希望の灯を感じてもらうために今回は映画
ベン・ハーを紹介しておこう、既に観ている人も俺の記事を読んだ後に再見すれば、もっと色々なことに気付くはずだ
監督は名匠中の名匠である
ウィリアム・ワイラー。西部劇の傑作
大いなる西部、舞台劇の映画化
探偵物語、息詰まるサスペンス
必死の逃亡者が特にお勧め。