札幌に、ゴッホ展が来ているのですから、
どうしても、、、
足が向いてしまいます。
先日と違って、
今回は、作品が、何年度に描かれたものであるか、
ゆとりを持って、鑑賞してきました。
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晩年、精神を病んでからの作品に
カラーの花びらが、折れ曲がっている、、、、花活け。
まるで
失恋の花の絵のような。女性の現身のような花。
艶やかな命の香りは無くなった妄想の中の写実。
さびしい絵がありました。
日本に恋をしたゴッホが、
花魁や、日本の女性にも、
カール、ブッセの
「山のあなたの空、、遠く、、行けども行けども遠い欲望。
自らの心の中に引きこんでしまった日本。
アルルに移り住んでからは
日本を描いた絵は、
此処になくても良いと言ったそうである。
それほど、
アルルは日本に
似ていると、
ゴッホは思い込んであるようだった。
ゴッホの人生と、
その時の精神状態とを認識したうえで
作品を鑑賞すると、
人間の弱さのようなものも描かれていて、
麻薬や、幻覚剤、もしくは、、、覚せい剤のようなものが
ゴッホ自身の脳の中に、泉のように湧いてきて
ゴッホを翻弄し始めているのかもしれない、、、
エンドルフィン、、、が、、、、出てきて
快楽と、苦しみが、黄色い光になったのかもしれない、、、?????
日本画に引き込まれたと言っても
ゴッホの病んでる頭脳に投影された日本画は
構図だけは確かに似ているが、
浮世絵師の、グローバルな、森羅万象が
単線になって、存在を感じさせない存在感は、
研ぎ澄まされた一本の線になって
現地で観ている瞳のように澄み切って、空気が美味しい。
空気の美しさに、深呼吸する。
ゴッホは、あこがれても、あこがれても、
存在するに違いないユートピア日本の風景を
浮世絵出見ながらも、、、
手の届かない世界観を、
自分自身のオリジナルな愛玩として手に入れようと
もがけばもがくほど
日本が解らなくなるような、、、
ストラグルの中の油絵に思えた。
絵そのものの魂の揺らぎのようなキャンバスが
男性が故の、
恋の病のような怖さが出てくる。
この大きな会場で、
ゴッホを鑑賞するから平常心で居られるけれど、
もしも、自分の部屋に、
ゴッホの晩年の絵が、、、
もしも有ったら
安心して、絵と向き合っていられるだろうか?
ゴーギャンが、
「月と六ペンス」の本の中で
最後に、
作品に火を放つシーンが見えてきて、
画家の持つ闇の世界に
引き込まれてゆく狂気が怖くなってくる。
ゴッホの絵は、
美術館で観ることが、一番だと感じながら、
4時間かけて、、、隅々まで鑑賞した。
例えば、、、一見、、、恋人たちの遊ぶ森の木立、、、。
下草が、病んでるゴッホの心のごとく揺れて、
木立の中の恋人たちに見える男女の顔がぼやけて見えにくい。
木立を通り抜けようとすると、藍色の暗すぎる空が、
孤立した森のように、抜け出られる世界が
藍色で、遮断されている、、、閉塞感。
客観的な立場で鑑賞できると、
手に入れたいと悲願に近い日本の諸々を
自分流に描きながら、
自分のカラの内なる欲望の世界に、実現できるという夢を
黒に近い藍色が、額の中に閉じ込めてしまっている。
影のない、現実離れした病んでる精神に移る世界は
あらゆるものが螺旋に、、、ねじれて描かれていた。
日本画には影が無い、
夜のない世界のように、、、、
観ていて苦しくなると、、、「これがゴッホなんだ」と、、、
痛感する作品が、会場にうごめいていた。
日本の浮世絵が、影のない作品がほとんどだけに
構図がはっきりしているだけに、
ゴッホは浮世絵に
日本の障子越しの光のような
ナイーブな感覚を感じたに違いない。
黄色い背景になっているが
何とも言えないゴッホの世界の日本であったと、、、
線が創り上げる浮世絵と
油絵の具の「立体的な面が創り上げるゴッホの世界の
光のとらえ方と、影が無い絵の多いことに
ゴッホにとって、影も光なのかもしれないと
思ったりしながら、
晩年の作品に、重くのしかかる精神の状態が
何とも、うごめいている怖さも感じながら、
会場を後にした。
会場の「お菊さん」のスライドを、鑑賞しながら、
日本人の情操の豊かな表現に
しばし足を止めて、観いいておりました