花鳥風月

生かされて行くもの達の美しさを見つめて,
ありのままの心で生きている日々の、
ふとした驚き、感動、希望、

8月の記憶

2019-08-04 23:57:07 | Weblog

終戦の前年の8月

国内退去の通達を戦地まで知らせてくれた母の父、

お爺ちゃん。

娘夫婦を国内に退去させるために

祖父は戦火激しい中を

退去命令をもって、大陸に渡った。

長男はシベリアに居たというが、

娘夫婦を日本に誘導する法を優先させてくれた。

最前線の戦地に

出発する準備中のトラックの

突然の出発停止。

すんでのところで、

父は舅に当たる私のお爺ちゃんの誘導で

大陸との連絡船で日本に入国できた。

父母は8月になると、

お爺ちゃんへの感謝を話してくれた。

連絡船に乗ると、窓を閉めて外が見えないようにするという

船内からの命令があった。

護衛の船はすでになく、

真っ暗な海を真っ暗な船が日本に向かったと、

話していた、

日本に、運よく到着・

お爺ちゃんは家族にとって

多くの知恵で

孫子を守ってくれたなんて、、、、、

なんという、幸運!

8月の海には護衛戦のつかない連絡船が

日本に向かって

夜の海を

真っ暗な海を、

灯りを消して、、、、、祖国に向かって帰ってきたのでした。

 

あれから75年が過ぎたことになります。

どうして、、、北海道に住んでいるのか、、、?

振り返ると、、、自分でも理解できない。

東京から、北海道に移り住むことは

さほどの努力は要らなかった。

しかし、北海道から東京に戻ることは

鯉の滝登りと同じだった。

何回も試みても、急流に押し流されて、

帰還することはできなかった。

振り返れば、外国の地で

終戦間際になって

日本に帰還できた父と母には

一身をなげうって、、、命がけで

娘夫婦を迎えに

戦場まで迎えに来てくれた祖父が居た。

戦場から祖父がそのまま

熊野の山の奥の奥の

疎開地に、

娘夫婦を抱え込んで

無一文で

しかも、キノミ着のままの

娘夫妻には新生児の私が

防空壕で生まれたのだった。

祖父は娘家族を抱え込んだまま

終戦を迎えたのでした。

、、、、、

祖父がもしも、、、捨て身の心で

戦地まで迎えに来てくれなかったら、、、

私は生まれたと同時に、戦地で命を落としていた事だろうと

想像するときが、、、8月である。

祖父にいただいた命だと思っている。

終戦を迎えたときには

祖父の紹介で、

父は、南紀の七か村、、、無医村という疎開地の診療所の

唯一の外科医として、

戦後の第一歩の生活が始まりました。

B29  の

ゴンゴンゴン、、、ゴン、、とうなる空の雲間には

恐怖があったと言っていました。

そして、翌年の昭和20年8月!!!

ついに、、、人類のタブーにもあたる「原子爆弾」が

広島に落下されたのでした。

続いて、、、長崎、、、

人類は、正々堂々と名乗りを挙げて戦っていた武士の時代から

300年の鎖国を経て

独自の文化の中で繁栄していた元禄の井戸の中から

明治という、青空の下に来たときには

鎖国時代には想像できない世界という

見えない糸でバランスをとる、、、文明開化を経験した。

地球規模の国々との交流に

精いっぱいの努力と

精いっぱいの勉強と

始まったばかりの議会政治は

富国強兵という

アジアが一体となって、、、

一つの大きな

大きな国になって、

アメリカ 

ロシア

ヨーロッパと

互角に対等な交流が出来る国づくりが

何処でどのように間違ってしまったのか?

文明開化をしたばかりの

後進国同様だった国民の中から、

世界情勢を知る一部の人たちが

国を動かさざるを得ない政治が、、、

世界の大国とバランス感覚で

調和してゆくつもりであったと思えるが

私には、ワカラナイ???高度な次元の解釈が要ります。

玉音放送でラジオから聞こえてきた

昭和天皇陛下の終戦のお言葉には

国民は地面にひれ伏して

悪魔の原子爆弾の落下の現実において

陛下の玉音放送において

終戦のお言葉によって

戦後が始まったのは

昭和20年の8月でした。

もし、、、陛下の玉音放送が無かったら、

日本人は原子爆弾によって

「元素」に分解されていたことだっただろう、

怖い8月。人類のタブーがキノコ雲になって

未来の地球に一大警告となった広島落下の原子爆8月の記憶です