花鳥風月

生かされて行くもの達の美しさを見つめて,
ありのままの心で生きている日々の、
ふとした驚き、感動、希望、

第二の人生

2019-08-22 06:35:01 | Weblog
100歳まで生きる時代になった今日

第二の人生は何歳から始めても良いと思うようになりました。

私にとって昭和19年から22年ごろまでは

南紀の山の、、、そのまた山奥の
毎日が登山中とも言えそうな
自然が先生で、厳しくもあり、優しくもあり、先生であり親同様でした。

台風になると、雨戸に十字に板を打ち付けないと、
瓦の屋根の飛んでしまう嵐のすさまじさに、自然の力を見て育ちました。

会社もない、大型店もない、村中丸ごと、、、その日ぐらしの多い中で

特別に恵まれた地元の豪族が、祭りも、いろいろなイベントも決めていた。

13歳でこの地を出て、父の故郷の東京へ転校した。

小学校6年生は、田舎も東京も、大した差はなかった。

受け持ちの担任が「秋田の出身」であったせいか、

転校生の私の都会的なところと田舎っぺーなところを気にいっててくださり

学校生活は、スムースに東京に入れたのでした。

先生の存在が、架け橋となり、秋田訛りと和歌山訛りが飛び交う教室には

ややもするといじめが起こるはずの転校生に

クラス委員という評価がついて、

私的には、見知らぬ環境で、
クラスのメンバーの

学生だけにわかる上下関係もわからないままに

汗だくの6年生のクラス委員でした。

中学は校門の真ん前にある図書館が目当てで

区域外の中学に行きました。

私はもう、、、転校生ではありませんでした。

心の中では2回目の転校生のつもりで、

勉強がプロテクターになるように
常に上位に居るという慎重な目立たない
虐めからの警戒網は解除リラックスはありませんでした。

中学校では陸上部に入って

毎朝7時から校庭を走りました。

強そうな、どこかルールに緩やかそうな先生でした。

放課後からは「高跳びです」

背面飛びで120センチを目標に飛んでいた時期が

一番楽しかったのを、、、記憶しています。

先輩の
「田辺さんといったかな~~~田畑さんだったかな・・・・?忘れちゃったけど。。。

美しい人でした。

3年生の受験時代に入ってからは

図書館で本を探しながらも、、、
勉強しなくっちゃ、、、と、焦るときもありました。

お父さんが慶応大学を卒業されていて

戦後の復活の為の東京の土地をたくさん買って
再開発の国の事業を請け負う会社だと、
中学生の本人は
まだ子供なので、上から見下ろすような謙虚ではあるが
アピールしたいという、アグレッシブな気性で、つっかっかて来たことが
私には、、、むしろ友情を覚えたのでした。

「僕のお父さんは世界を視野に入れて勤めているんだ」と
誇らしげに言っていました。

「君のお父さんは医者だってね?
君は医者は偉いと思ってるんだろう、?
お父さんには
病気の人が
皆。。。頭。。。下げてくるからな、、、、」

私は、返事のしようがなくて黙っていた。、

「医者は偉いって思ってるんだろう?」

もう一度繰り返して、私の目と正面から見つめ合った。
でっかい目玉を黒く光らせて、
男なのに、、、まつ毛がやたら濃くって、長くって、、、
可愛い顔をしていた。

、、、、、沈黙する私、、、、

「世の中は広いんだぜ、、、銀行の頭取とか、

日本の経済を動かしている人間が

戦後の傷ついた日本の医者なのさ、、、」

親の受け売りなのか?
この子の意見なのか?

一理あるシャープな意見だけれど、返事を返す気にはならなかった。

医者は「銃後の守り」だから、戦場ではお父さんが居ることで

その隊の兵隊さんは、
後方に憂いなく、前進したと、

戦争中の話を、父から聴いたことが有った。



偉いとか、、、偉くないとか、、、考えたことはなかった。
私は、戦後の昭和25年ぐらいからの父の姿しか知らない。

七か村が無医村の熊野の山奥で
東京から、外科医が来たというので、
毎日毎日、患者さんであふれかえり、子供と遊べない親であるのが医者だと思って育った。

或る夏休みの日に、
川に連れてってくれる約束で、兄と弟と私の4人が、楽しみにしていた。
小学校6年の兄は「西瓜割りを川原であするんだと、張り切っていた。
二番目の兄貴は箱眼鏡で鮎を覗き乍ら、菱で付くんだと張り切っていた。
用事だった弟は、
やたらに走り回って、
なんか楽しいことが起きるのだと感じているのだろう。

父と母が麦わら帽子で現れて、子供たちが、最高のウキウキ気分で
坂道を川に向かってありてゆく途中だった、、、!!!
「先生~~~~せんせい~~~。。。!!!!」
息を切らせて、追いかけてくる「おっさんが居た。」

一生忘れることが出来ない
、、、、父は患者さんに呼び戻されたのだった。
日曜日の、この家族の最高の時間が始まるはずの今!
父は診療所に帰って行ってしまったのだった。

「偉いと思っているだろう?、、」、と、聞かれても、
私は外野のヤジにも匹敵しない、、、頓珍漢な言葉に思えた。

父に遊んでもらいたかった、、、
よその子たちは
運動会でも、
学芸会でも、
夏休みの川原でも
お父さんの腕にぶら下がってはしゃいでいた。

たった一回の、
八月の私の誕生日の
川原での西瓜割りのイベントにも
お父さんは患者さんに、、、
連れ戻された。
川原でも、待っていたのに、、、
お父さんはとうとう来てはくれなかった。

何処に居ても、人間が居る限り、、、
必要とされるお父さんは
泣きべそをかきながらも、、、
私の中では仕方がないと聞き分けていた。

物ごころつかない2歳の頃から、

いわれなき「嫉妬」の
ゆがんだ虐めの
谷間に位置していた、、、
私の人生の配牌だった。

2歳の時、囲炉裏の傍で、使用人の膝に居たのに
囲炉裏に落ちて、右手が団子になって
指がくっつていた私だった。

小学校では
「手が変だと、、、
ゆわれなきちょっかいに悩まされた。」

幼いころから、毎日右手の治療にあたってくれる、
私のかかりつけ医師が父だったことも大きかった。
私にとって、神様の次に尊敬していただけである。

村の皆が尊敬しているからではない、、、
右手の火傷の治療中だったこともあり
一日のうち、必ず、
私の手を、
骨伸ばしのマッサージと
骨を成長させるために
肉の部分を切開するので、
マーキュロのガーゼ交換が毎日必要だった。
だから、
緊張のまなざしで、
タルクという粉で真っ白になりながら
切り離した指を毎日マッサージしながら
成長に添って
骨を成長させたら、
きちんとした指になるからと、
外科医の父は真剣なまなざしで
患者さんでもある私とは、、、毎日背強いては居たのだった。

患者さんと父の関係は、
暗黙のうちにわかっては居たが
坂道まで追いかけてきた患者さんには

私は大きい声で、叫んだ!
「今日は、お父さんを連れて行ちゃダメ!!!、、
誕生日の西瓜割りするんだから!!!」
患者さんとしての父との時間ではない、、、
唯一の父と娘の時間でもあり

家族という独占できる時間なのに、、
、私は、
患者さんに連れてゆかれる父の後ろ姿を見ながら
泣きそうになったのを、、、
今でも覚えている。

お父さんが帰ってしまう後ろ姿に向かって
「まってるからね~~~!!!」
何回も何回も叫んで
泣きそうになっていた幼いころが
走馬灯のように浮かんでは消え、、消えては浮かんだ。

やがて、、、気が付いたが
世間の親たちは

医師の娘は、自分の父親が患者さんたちの
病気と健康に

深くかかわる職業だから、
娘の立場の考えを
あれこれと知りたくなるのかもしれません。


「父親が医師で、医師は偉いと思っているだろう?」
もう一度、、、その子は言った。
黙っている私の答えを
無理やりにでも聞きたいという構えであった。

頓珍漢な蚊帳の外から
医師の家庭を勝手につくりあげている
「おかめの質問」には、、、
答えようがなかったというのが本音であった。

その子はアチーブではライバルであった。
成績もいつも、私の上位に居た。

本当の勉強という意味では
その少年の方がジュンスであった。

いびり防止のプロテクターのつもりで
読書の勢いで、ついでに宿題も済ませていた私は
生きてゆくのに必要だから
真剣に順位を競っている男の子には
目障りな
いい加減な女性に
見えたのは解る様な気がした。

予習復習するぐらいでは
目立つメンバーになるのは、
だんだんむつかしくなって来た。

クラスメートも頑張りだしたので、
今までのようなペースでは
上位10番以内に常駐というためには、

予習も復習の他にも

何かが必要になってきた。

いじめっ子たちが遠巻きして、
勉強のできる子には近づいてこないという
勉強を道具にしている根性では
伸び率がゼロに近いという
限界の闘いが切って落とされた。


「成績上位だと、不良やいじめっ子が近づかない」という
精神戦での先手必勝は、効果があった。
「お堀」は攻撃の手から守ってくれた。

受験が始まる中学2年の3学期あたりからは
難攻不落と思えた石垣も
堀も、
浅くなる気配に追いかけられて居た。
「社会」という、、、
「第3の大きな支配者」が
現れたことが解る年代に突入した。

男の子の繰り返す執拗な質問と、
経済が社会を動かしているから、
医師はもちろん
理工系の技術で生きてる父親たちは

経済を握っている官僚の自分の父親が
羊飼いの親分だとしたら
お前らの親は羊だというのだった。

羊飼いの親分は、
高く売れそうな成長株の羊は餌をくれるが
役に立ちそうもない羊は
早々と、売ってしまうか、喰ってしまうんだと
口を斜めに引き上げて、、、教えてくれた。

医者は、もちろん、
多くの技術系のサラリーマンも、職人も、
僕の父さんの関わっている
経済社会の経済分野所属の者から見ると

社会のツールでしかないんだよね、、、、」

私は、、、答えようがなかった。

「医師は、医師をすることだけあれば、
その仕事を天職だと思えるから.]


誰の支配も受けないし、羊飼いの道具ではないし、
偉いとか、偉くないとかの世界ではないし、、、
お寺の坊さんのように、
見える形のものを
見えない宗教で守っているというのでもないし、

病人は医師にしか原因はわからないから、

外からは見えない努力を
患者さんは当たり前だと思って受け取るわけだから

大きい病気も、軽い病気も、
お父さんは全力で病気と寄り添って
患者さんの自分自身の中にある治癒の力を
ありったけの経験と学問を使って
引き出したとき
お父さんは、、、

医師になって、良かったと思うと言ってましたよ。

神様から報酬を受けるという仕事だと思うわよ、、、

偉いとか、偉くないとか、、、
儲かるとか、
儲からないとかの世界ではなくて、、、
医療の世界に生きた人間が周りに居たから、、、
この患者さんが治癒につながったと思えるとき

医師も、看護師さんも、
リハビリ―担当の理学療法師さんも
コメデイカルのチームが一丸となって
病人に寄り添うわけだから、
皆、自分の専門的な努力が報われて
患者さんが治癒したときには

天職だと、再認識して、
この仕事を選んでよかったと、思えるのではないでしょうか?

「お父さんは、、、医者になってよかった、、、」と
思えるんだよ、、、と

言っていたことが有りました。


心の中で、浮かんできた情景を
説明できたわけではないが、
考えは地球七周り半を高速で廻った。

答えようがない挑戦的な質問を前にして
「無言のまま、
横を向いて、
父の世界に入り込んで
なにが何でも、
父を肯定して,

私の中では、どんな人よりも、大切な存在であった。

言い訳がましく
娘だからと言って
外野の私が話せば、
父の内面にある医師の魂を汚すことにもなろう。


必要以上に頑張っていたのを、、、
哀しき転校生魂だと振り返るのでした。

落ち着かない中学3年生だったことを思い出します。

アチーブで800点越えしたときは

少し遊ぶことにしたり、部活に行って

しばし受験を忘れて遊んだりした
日活の映画館が近くにあって

裕次郎さんの映画を何本か観に行きました。
「おいらはドラマー、、、」と歌っていた映画の
ドサクサの家の中に
がらくたに交じって映っていた壁の額絵が
あまり素晴らしいので、
映画は、
俳優や女優も
大きな役を果たしていることはもちろんだけれど

背景が、したたかに面白いと気が付いてからは

社会勉強は、
映画の背景から学んだ事が多かった中学時代でした。

忘れることのできない、貧しさの中の
天与の贈り物だった
「知恵遅れの妙齢の女性」の描く戦後の町の片隅。

例えば、、、戦後の貧しい女性

「音羽信子の≪ドブ≫」という
知恵遅れの女性が一人で生きてゆく日常。
戦後の世界を生きる女性の日常の映画からは

生涯忘れられない、、、
日本の自主性のある哀しき、、、
在ってはならない貧しさを感じて
映画館の中で、、、涙が止まらなかった。

知恵遅れのその女性が、
ドブのある町で
身体を売って生活している、
、、
稼いだ日の晴れやかな屈託のない顔が、、、
今思うと「名演技」だった。
大声で、嬉しそうに、、、

ドブの在る道に沿って歌いながら

手を振りながら、、、帰ってゆく姿に

戦争の罪を叫びたいという、、、
哀しすぎる「社会の病気」を観ていました。

知恵遅れの女性。
戦後の一億皆貧困のバラックの町。

ドブの在る道に、、、夕日は閼伽。

ドブが臭ってくるような社会の病の映画の中で
知恵遅れという神様の贈り物の中で
唯一神が与えてくれた恵みであるはずの

「女」という繊細な宝物を

男の欲望の道具として金に換えて行き
知恵遅れがゆえに、哀しさが解る由もない。

音羽信子は、
正常の知恵者なら不浄のお金を哀しむだろう。

自分の稼ぎと認識して
ドブのそばを、手を大きく横横に動かして、歌を歌って

最高の無知な笑顔で、帰ってゆく、、、。

戦後の日本の社会には
「偉いも、、、偉くない、、、秩序もないのだった。」

私たち中学生が、頑張って復興させないと、

終戦が本当の敗戦になってしまうと思った映画だった。

日本国内で、上下をウンヌンしていると

サザエの貝の中の出来事のように、

世界の焼き網の上で、蓋つきの鍋のごとく
貝の丸ごとが餌になってしまう。

目覚めよ、、、終戦は敗戦にしてはならない。

今朝も早く皇室アルバムをTVで拝見して

平成時代の天皇様と、
我らが国民と皇室に橋を架けてくださった
若きプリンセスの「美智子様」が
歳を重ねられれば、慈愛に満ちて

一緒に年をとって行けることが

安心なひと時でもあり。

完ぺきな生涯の晩年のお姿の中に

日本には、、、やっぱり、、、
神様が居るのだと思います。

こんなにも、完ぺきに
終戦から、
日本人が
日本人であることの誇りを守れたのも、

民間と皇室を橋渡ししてくださり、

国民とともに生きてくださったという

万人には
「国のお母様が居てくれるという無意識の安心感の中で
日本人の女性の役割を
育児から、始まって、、、
国民に理解させてくださった
日本の始まりからあった「誇り」を
母親たちにわからせてくれた気がしています。

神々しいお姿だと思いました。
戦後の日本の復活期で
日本で一番難しい女性の役割があったとしたら、

美智子様のお立場だったのではないでしょうか。

天皇様の愛があったから、

天皇様に愛されるような
素晴らしい女性だったから

戦後のドサクサの中で日本女性は迷うことなく、
女性たちのモラルが守られたのかもしれません。

美智子様の育児を通して、
眩しいような女性の立ち振る舞いに
何回見とれたかもしれません、、、。

女性のお帽子が、なんて素敵なんだろうと思えたのも

日本の最高の女性が、
しっとりと、
最高の
愛ある美しさの動きの中に
神々しい世界から飛んできて
美智子様の御髪にとまった
神様の小鳥のように
神様からの花びらのように

存在の美しさのメロディ―のように伝わってくる
「微笑みの花織」のお帽子だと、、、

見とれました。

やっぱり、、、
昭和平成の激動の復活期を見守ってくださった
平成天皇様と
平成皇后さまのお姿が
TVで拝見できるだけでも、

御一緒に生きてくださったのだと、、、
あたたかな気持ちになります。

令和になって、歴史を振り返るとき
平成天皇様のお顔とそっくりな天皇様が即位され

日本の文化は、長い時間の歴史の賜物であり
世界中の国家にも
自国の歴史の賜物の文化があるので

国境を越えた文化交流が
未来永劫
地球が続く限り

ITがどんなに進化しても
及ぶはずのない価値であることを
日本人であるという
心に差し込む、、、一筋の光でああると思っています。

日本人が日本人を感じるときは、
日本の長い長い歴史が
不思議な、、、不思議な、、、
歴史始まって以来の時間の継続の中に
天皇様という存在が日本の文化であって、
日本の文化があるという事は

日本人は日本人以外の何ものでも無くて、
領土とか、支配とかを超えた

時間空間だけが証明できる
文化となって見えない習慣に

共有する誇りが日本の象徴だと思うのですよね。

75歳になった、婆ちゃんの私にとって、

皇室アルバムを拝見した日は

日記帳の、ブログも、長くなってしまいます。

美智子様のことは、、、国のお母様であると思います。

平成天皇様に愛された女性が、、、
戦後の日本で美しく育っていたという不思議が

やっぱり、、、
日本には神様がいらっしゃると、思います。

日本の存続は
「女性の総合力が大きく国を左右する」と思いました。

私は、もう、、、なんの役にも立ちませんが

美しくて、聡明で、愛情が豊かで、健康な女性が

日本の行く末を握っているのではないかしらね、、、と
思いたくなります。

これは、、
親友や個人的な友人とのブログですから、
間違ってクリックしたウオッチャーの迷子がいらしたら、

75歳の婆ちゃんの、
かってな思いを書いている日記であることを
あらかじめ、、、断っておきます。

人が、、、どうあれ、、、なんと思おうと、、、

美智子様は日本のおかあさまです。

平成の天皇様の

心の窓を開けることのできた女性は

戦後の日本女性たち全員に

「私だって、、、!」と
全力で美しく生きることを啓蒙してくださったと信じています。

美しいという事は

若さとか、美貌とか、教養とか、なによりも愛情豊かな感性とか

いろいろ言えるかもしれませんが、、、

生きてこられたすべての時間を
その日そのときの最高の時間で、
今日につながっているという

ありのままの美しさの、、、
究極のレベルの感動が、
その時代時代の日本を象徴していると思います。

お健やかに、、、
万人の祈りは神に通じます。



政治と軍隊と、皇室が最もむつかしい時代の明治維新の激動が

300年の鎖国のあとの開国と、世界との文化交流と
武士の魂や、
軍部のアスリートの金メダル以上の一本気と、

神風特攻隊の精神のある日本人と

戦後は誰が悪いのでもなく
、時代のプレートが大地震を起こしたようにも思いたい日本。

鎖国から覚めたときには
世界のプレトーが大きく動いた時期であったと理解しています。

話は、どこかにそれてしまいましたが

皇室がある限り、
日本人の実家があるのと同じです。


*********************************************
お話は、元に戻りますが、

中学時代は


受験時代を知り始めた初めでした。

父は男女区別なく「大学教育を受けるべき」と、
思ってくれていましたが、

女医になって、大学の研究室に残るといいよ、、、と。
研究の面白さを話してくれたりしていました。

病気の人を診る医師は大変だよ。
でも、
人体の宇宙や、
病気の秘密に迫ってゆくのは
充実感があるはずだよ。

お父さんも、
若いころは

らい病とか、、、
差別を受けている病気
は実は原因が解るのではないかと
研究に夢中になった時期もあるんだよ、、、
父はいつも私の見方だった。

うつるというのも変だと思うし、、、。

父は弟には
将来医師になって
日本の国に尽くしてもらいたいと思っているのが
はた目にも解ったような場面が多々ありました。


優秀な双葉より芳しの弟は、父母の期待の星だった。

2年も浪人して受からない東大は避けて通ろう、、、と

弟は高校も、大好きなテニスが出来る高校を選び、

戦争を知らない豊かな心が、ひときわ好感度が高くて

友達も多く、

仲間たちとも、

まるで眩しいように接してもらえているのを

私は、、、人徳だな~~~と、
思わず微笑んでしまう良い関係を保つ弟だった。

母も、長男も、男の子のような価値観の娘を見ながら
主張が強い子だと、、、間違っていた。

戦後の日本を復興するグループに入れてもらえるか?
子供を産んで、家事雑用に生涯鶏のように過ごすか?!

中学校の勉強が決めると言っても過言ではないと
私的には、生きねばと思う事が

勉強に手を向けない多感な中学生時代をすごっしていた。

中学三年の3学期に

教育大学附属とお茶大の付属高校への願書をいただきました。

私的には、学問を一生続けるのなら

「大学受験を今から考えているなら、
家族と相談しなさい」と言われました。

中学時代の私は、東京という
新しい環境に受け入れてもらうには
手っ取り早く成績を上位に持って行くことだと判断していた。

成績自体には、決められた問題の枠のある出題だから
勉強さえすれば範囲があるというのはチャンスだよ。
誰でも上位になれるチャンスがあるのが中学だよと

父が教えてくれていた。

お爺ちゃんが長い間西海岸に住んでいた関係もあり
金門橋の話や、
油絵を見ながら、
ロスの話などを聴きながら育ちました。
祖父の住まいは
玄関の上がベランダになっている洋館建てでした。

アメリカには祖父や祖母を通して
親しいものを感じていたせいか、

当時、はやり始めていた

「英語の歌を丸暗記して、楽しんでいた。」
英語は中学生の中でも
、聞き取りは解る方で、
修学旅行に行ったとき、
外人さんに話しかけられた英語教師が

私を呼んでくれたことが有った。

アチーブテストでは、たぶん、
、英語と国語が、
仲間の中学生に差をつける武器になっていたと思っている。

ちょうどそのとき、

長男が
2年続けて東京大学を受からず、

桜散る、、、

学者の道はあきらめて、父と一緒に家族を背負って

開業の跡取りの目的に

人生の航路を北北西に舵取りを切ったところでした。

東京大学合格と信じ切っていたころの兄貴は
夜になると
「お父さん、お母さん、おやすみなさい。」

きちんと、挨拶に現れて、夢に向かって地震にあふれているようだった。
「お兄ちゃんが、東京大学に通うようになれば、
我が家は、丸の内の線の中で育った生活にもどれるんだ。

世界の発展に遅れないように
日本の復興に
インターナショナルな
リーダーとして頑張ることが出来るんだ、、、。

兄きの希望に燃えた幼すぎる東大受験の動機が
今でも、、、ニクメナイ。

東大受験に備えて、
切らなくても、、、散らせるよ、、、と言われた虫垂炎も、
受験日に再発しないようにとOPEに踏み切るほど
入学する気、、、満々だった。

父の父のあたる、、、
いわゆる祖父が
宮内庁に勤務する
剣道5段の豪快な
気品と気位と備えたダイナミックな気質だったこともあり、

東大を卒業して国家の為に役立つ人間になるか、
外科医になって、富国強兵時代の軍隊の銃後の病院で
銃創や刀傷、爆傷、、、etc,陸軍中野学校の近くに住居の有った時代である。

農学部に行って、北海道に行って
大農場をもって、厩と一緒に自然と一体に暮らしたいという
若き日の父の夢は
祖父の勧めで、外科医となり、イギリス医学を学び

戦争だらけだった時代の外科医は、戦地の総合病院で

銃後の御奉公として、軍医として、従軍し
昭和19年春、、、
戦場の野戦病院に行くべきトラックが、、、やってこなかったという

日本は各戦場で、、、
玉砕の時期に、、、
軍医は無用のsignだったのだろうか?

日本から戦地まで祖父は娘夫婦を迎えに来た、
そして、、、九死に一生を得た父は、
日本に帰り、疎開地で、神がかりともいえる
多くの戦争帰りの患者さんや、
敗戦で貧乏のぞん底になっている村人の
七か村唯一の医師として、
その後

私とは19年の親子の時代が終わるまで
ありったけの愛を、生き残ったすべての人に捧げる人生でした。
父が亡くなった後は
医療機械の他には
何もありませんでした。

長男がきっと、、、学生時代から、、、
シュウカツ???よろしく、

未来のお嫁さんと付き合うためにも

質屋さんにもちこんでしまったのでしょうか?

私立医大に通うようになった兄貴は人間が変わったように
自己中になりました。

「いいか!お前たちのトイレットペーパーまで買うために
 お兄ちゃんの人生は医師をすることになるんだ。
人の身体に注射するなんて、恐ろしいことをする仕事だ、、、!
お兄ちゃんが。医師をすることを断れば、
家族も、居候も、従業員も、その者たちの家族も、喰えなくなるんだぞ!」

「親父が、、、こんなもの、、、残すから、、、
母と、お前らを背負って、
ロバのような荷物を運ぶ人生になりそうだ、、、!」
この家に閉じ込められた、、、と
わけもなく、
周りの弟妹に恩がけるようなことを言いながら

「自分ファーストの長男」に
どんどん変化して浮きました。

短大卒業の女性を連れてきて、

「お姉さま」と呼べ!」
「この方は我が家の床の間にお座りいただく。」
この方に逆らったり、批判したときは、
お前の生活費も、あらゆる費用は打ち切るからな。」

54歳で父が早逝したときには、私ら兄弟を集めて、

メンメント、、、
自分の悲劇の立場を話して聞かせて、
財産は放棄して、印鑑をつけと、

全員から「遺産相続放棄の書類を提出させた、」

「この家はこれからの苦労の代償に、お兄ちゃんの私物であることがわかったな!」

短大卒のTVの美容外科のコマーシャルに出ているような、
どこか???ポメラニアンのような、床の間の住人が
遺産相続の放棄の印鑑を、集めて回った。
無表情な、作業をしている顔で、
書類を配ってきたのが、、、時間が止まり始めた時であった。

この方とは、、、喧嘩もしないし、話もしないし、
兄きが他人になり始めた時を

存在だけで感じさせてくれた。

いよいよ、、、専制君主の誕生でした。

貧すれば呑欲、、、?

まず、
居候の皆さんに退去願い、
職員には退職金を支払って辞めてもらい、

兄の時代の職員が新規に募集された。

理工学部薬学科在学中の私にとって
父が死んでしまった以上、
財産放棄をすることで、
卒業までの経費をゲットする道だけが提示された。

卒業旅行の時、
「学生時代の経費は出すが、卒業旅行費まで出すとは言ってない。」
兄きは、卒業旅行は、自分がアルバイトをしたお金で行け、、、と言った。

父が亡くなった葬儀の時も、大学の仲間が40人以上
葬式に来てくれたのに、

「お前の友人は全員が学生だから、会葬の方々にお渡しするお礼は
割愛させていただく代わりに、一人一人にお礼の言葉とともに
おかえり頂くことにしたから。」、、と

全て割愛の兄貴には、異論も出そうだったのをこらえていた。

その後、めでたく卒業して、
国家試験にも合格でき☜

私自身は、大学を出て、大学病院に勤務中なのに

あちこちの縁談にOKを出しては、
憂鬱になるほど、、、
お見合い持ち込んできたのでした。

いろいろと、
腹を立てるのは損だと自分を抑えていたが

日本は男性社会であるという、
問答無用の女性差別がありました。

思い起こせば、、、4年前

私が持って帰ってきた「名門の高校の願書」は

兄きが、目の前で破いてしまいました。

何で?破くの?

「お前は高校に行ったら毎朝東京横断する電車賃を使う気なのか?

我が家は居候家族二家族と従業員とお兄ちゃんは私立医大に行ってるんだ。

都立高校なら120円で行けるんだぞ!」

18歳になったら、
お前のめんどうは自分で稼いで、自分で大学に行け!

すごいケンマクで、、、

私がもらった書類をピリピリに破いてしまいました。

その日から、
家では兄貴の意見は聞き流すようにして

適当に、頭の受容体をオフにして、

刺激しないようにして暮らすようにしたのを記憶しています。

こんな性格の人に東大に入られたら、、、
大変だったと思ったりしながら

ホッとする反面、、一方では

大学の皆が持っているからと言って
自家用車で通学したり、

女性にプレゼントをしたり

私の東京都横断の電車賃がウンヌンというスケールではない
自分自身に架かる出費には何食わぬ顔で耐える兄貴。

学生なのに、日産の縦ライトの紳士用のセダンを買ってきた。

父が、これ以上小遣は出せないと言ったときには、

貴重な物を質屋に持って行くという強硬手段だった。

大理石の風格ある時計も、
栢木の碁盤も、
いつの間にか額の中の絵まで無くなって
洋額の中に、
日本画の秀逸な魅力のある「正兆」の絵を
額にサイズが合うように
降りたたんで、入れ替えてあったりした。

絹の布に描かれた正兆の絵は、

さすがに大家の右腕を努めていた画家のだけあって
日本画なのに、水と光が絶妙な味を出していた。

私は、急いでサイズの合わない額から出して
軸にしようと専門家にゆだねたところ、

額に入れて置いたら、
折り目が少しはめだたなくなるかもしれないが
このまま軸にしても、、、痛ましさが先に立ちますと言われ

大きな額に居れて50年たったが
檻傷はくっきりと黒く跡となり、

ため息ばかりが出る。
いよいよ、
質屋に持って行くものも亡くなったときである。



戦場に行った経験のある父は
「軍医」であっても、銃を持って軍事訓練には参加したことを話していたことが有った。

疎開していた熊野の奥には
マタギと呼ばれていたイノシシなどを数を減らして
作物を守っている、世襲制の野生動物管理を任された一族が居た。
父の患者さんのなかにも居て
野生動物の狩りのノウハウの話をしてくれる、、、男の人がいて

村が毎年行ていた

「空気銃の的あてコンクール」などに

指導者として
兄と一緒に出掛けていたことが有った。

こずかい制限を受けた兄は
「新しい空気銃で、又、的あて協議に出ようよ、、、」

東京では。そのようなコンクールはあるのかと??
いぶかっていたが、

父は喜んで、サラリーマンの月給が1万円ぐらいの時に
15万もする空気銃を買って、磨いていた。

「何処が主催するのかね?」
父は兄のとっさの言葉を

真に受けていた。


3日後、、、、空気銃は我が家から消えた。

兄が、、、お金に変えてしまったのだった。
兄は恋をしていたのだった。

つま先立ちをしても、

戦前の我が家なら何とか出来たかもしれないが

終戦疎開、、、復活、、、と
大病院の院長、から、軍医、疎開、田舎暮らし
東京に復活して5年の新規開業の

居候をいっぱい抱えた我が家では

とても、とても、、、来てはもらえない、、、

そのときのお相手は、美しい女医さんでしたが。

我が家に見えられたとき、
あまりに多くの居候が居ることを知って

それっきり、現れなくなりました。

失恋病で、
「お前たちのような、未来にまたがる見える借金に、彼女はあきれたのだと、、、」

親父がこんな、、、居候だらけの家を残すからだ、、、!

しばらくは、家族のせいにしていました。
熱病に架かり死ぬか生きるかの
重体になりました。

兄きは人が変わったようになりました。


居候の大学教授の叔父さんの
強い縁があったのでしょうね、

私には歯が立たないような

美容外科の宣伝に出てくるような

美貌のワンコちゃんを抱いた女性に似た、

お勉強とは関係のないような、、
短大の未来のお嫁さんとの同居が始まった

私は高校3年生でした。部屋は
未来の婚約者の為に開けることになり、

ある日、、、帰宅したら
私の部屋の中の物が

ごっそりなくなっていました。

兄に問いただすと、

「お前の物は邪魔になったから、

セドリックのトランクに入るだけのものは入れて
古道具屋に売ってしまったから、、、」

何の悪げもなく、、、すらすらと言っていた。

キャラメルの景品をのカードを貯めて買った
「カバヤ文庫の一揃いは、、、何年かかって集めたと思っているんだろう!」
「砂漠の魔王の総天然色刷りの大判の絵本一式は、疎開時代から集めたモノなのに。。。」

「装丁の素敵だった、、、大地、
            嵐が丘
            、、、、

影も形も無くなっていた。

兄きの「恋の病の治療だと思うとすべてを受容したが、、、」

いよいよ、、、妹という、、、女性であって、オンナにはなりえない、、、
妹という邪魔な金食い虫の居場所がなくなるのを感じながらも、、、

生きるために、世間から、うとまれないためにも、

大學だけは生きてゆく必要な教養と技術であるから
それまでは、ご無理後最もの、テンポラリーな感情に目をつぶって

卒業してから、考えようと思いながら;

時が来たら、、、

家を出ようと決心した受験時代でした。

兄は戦場近くの外国で

3人の兄弟を喪ったときには10歳ぐらいであるはずだから

自覚のある喪失感のトラウマがあるはずだと思う。

初恋の女医さんは戦場で近くで死んだ妹が生きていたら
同じような年ごろである。

喪失感の「ダブルパンチであろう。」

10歳の少年の戦争体験や空襲や原子バクダンの投下のショックは

したたかな心のブラックホールとなって
どこかに、、狂気の喪失感が様々な形で現れるのは
廻りが寄り添うしかない。

戦後のブラックホールを埋めるのは

身近なものが理解して
長い間に、幸福の絶頂期も来るだろうから
その時期に
心を強くすることを
家族が考えなければ
先が見えなかった。

植木等のスーダラ節が
こうした人を救ってくれたのかもしれません。

出来そうな所に、人が集まってきたという

ちゃっかりな性格の者だけが

人を踏み台にして、戦後のバブルへと向かっていける場合もあると思うのでした。

********************************

街には、裕次郎さんの、切ない男の歌声と、
植木等のスーダラ節と、
ポールアンカの曲が流れていました。
母は毎日朝から
クラシックの音楽を弾いていました。

混沌とした青春の真っただ中で

私は、今でも、、、もう一度会いたいと思っている
同級生のぼくちゃんと、
山登りをしたり、ボートになったり
小さなアルバイトでもらったお金で
歌声喫茶に行ったりして、、、、

いわきの、、、おろしよ、、、吹くなら、、、吹けよ、、、

おおーーシーハイル、、、と

新宿の灯で歌った思い出が甦るのでした。

高校時代に、洋服屋のぼくちゃんとは、

幼い幼い男女の意識のない世界で

健康なボーイフレンドって、、、あの頃のあの人だったんだって!

今は懐かしく青春の時間ととともに止まっています。

兄の深刻なブラックホールの心のマイナスは
私にはなかった。

僕ちゃんも。あっけらかんの明るい健康な曇りの一点もない健康な学生でした。

一緒に、社会科の課題に取り組んで

靖国神社に行って、戦争の事を教科書以上に体感して、

戦争の怖さを、

一緒に、地面の下から受け止めた感性の豊かな時代でした。

高校生の時には、

私立医大の兄貴が居て、

遊びに来る学生のゴージャスな車を見ながら

世の中には、我が家とは段違いのお金持ちの居る学校があるんだと

びっくりしながら、自分は自分、

プリ根性の商魂の必要な商売は出来ない性格だから

必要なだけ稼げる女性になって、

世の中から必要にされる女性にならなければと

自分の中の依存性のお化けである「女」を目覚めさせないように、

依存心が育たないように、、、

出来るだけ、身の丈以上のものに出逢ったら

「借金と一緒になるよ、、、あんなものを欲しがったら、、、」

自問自答しながら、、、

兄貴の周りの当時の年代には豪華なに見える世界を避けて、

結婚しなくても、生きて行ける女性を目的にしたとき、

一切の贅沢品は
スルー出来る自分に育て上げました。

*****************

私立医科大学生が家族から出ると、

廻りは
「日照りの田んぼ」とおんなじになるんだな~と思いながら

居候のおばさんが、近所の人に、

私立医科大学はびっくりするようなお金がかかるんだと、

止せばいいのに、、、
言って歩くから、、、

私は、初めて、年上の人に、注意しました。

「叔母さんが払うわけではないのだから、、、お父さんが払っているのだから

お父さんには、それだけ払う価値を感じる未来があるから払うんだから

近所に言いまわるのはやめてほしいんやけれどね、、、

「理解されないよ、近所の人は、、、
未来の人脈づくりの投資だなんて、、解るわけがないんだから、、、」、

「そんなに払って大学に行くのが、、、
あほボンボンや、、、ていわれるのが、、、ええのんか?」

叔母さんは、、、
「ホンでも、、、もったいなさすぎる、、、」というから

私立大学は、
将来は臨床医のプロを育てるんや、
人間のレベルを知る必要もあるんよ。

全部実地で接することが出来る機会には。
少々お金かかっても、
金持ち集団の考えや、感性や、心の弱いところや

金が物言って「強すぎるところ」知っておくのも

医者になってから役に立つというもんやろう!???

学生証書が或るうちは、
大学というバックが災難から守ってくれるんやよ。

世間出てから、
こんなあほな浪費してたら、災難に遭うんよ。

学生やカラ、、、
親がそれだけすねかじられてんのやから出来る時期ってあるんよ。

叔母ちゃんから言わせると、

大学の同級生やカラ、海苔巻きでもつくって、果物でも出せばいいと思うやろう?

「魚せい」から、「青森のマグロの刺身」出して、誕生祝すると

友人の舌が、
お兄ちゃんを友達やとおもうてくれるんや、
叔母ちゃんの高菜の握り飯を出したら、

アウトやで!!!

医者になる学生の舌のレベルはね、

手作りの高菜のおにぎりは、、、阿寒!!のやで!。

医者になってからの友人って、たからもんやで!

廻りも、協力しないと、、、

お兄ちゃんはともかく、

同級生は一流ホテルの食事に家族で言ってる人ばかりやで、、、

近所に同情を求めても、、、

お兄ちゃんの言った学校はな、

お金持ちしか入られん學校やから。

入れてもろうた方が相手に合わしてゆかないと、

仲間から置いてけぼりになるんよ!

叔母ちゃんはびっくりするの解るけど、

病院の息子さんや、どえらい会社の社長さんや

政治家さんの御子息で、これが当たり前の世界の人やで


「これ以上言って歩くと、親に言うからね、」

***********************

私は内心、、、

叔母ちゃんは生活を節約していたのだと,、、

同情はしながらも、

兄が知ったら、大変だと思った。
男の生き残りというのは

東大に入るか、お金が使える男になるかの

戦後の格差世界の物語です。

「居候の、あんたたちが出て言ったらいいだろう、、、」と

言いかねない兄貴のバカボンは

生まれながらの、、

「その場の大将でなければ、いやだ!」の性格をしていた。

居候がごちゃごちゃいれば居るだけ、、、、

国立でも、私立でもいいやん、、、跡取りつくらんと

居候のおばちゃんの家族だけでも、

ドレメが一人、

看護学校が一人

中学生に小学生

父は給料を払って、生活費に学資、それに、、、息子の浪人代金に

その結果が、

医科大学の私立版、、、。

私立の医科大学は、臨床医を育てるだけあって

お金のない家族には卒業しても、未来の留学金や学問の道が開けない。

親父さんは、、、、持つかな、、、?
早死にするのと違うかな?

ストレスはきついものがあるはずやカラ、、、

私の大学卒業までは、、、持ってほしいな~~~と、

卒業したら、弟の学資は私が持ってがんばって卒業まで親に恩返しするわ。

家族があるのに、、、ないような、、、受験時代でした。

戦後の進学は、アメリカの植民地にならないためにも、

国民の学門レベルを上げて、日本が日本であり続けるための

戦後の復活の、、、目指せ東大の時期があったのです。

今から考えると、、、せちがらい狭量な価値観に
学生たちが追いやられていた時代でした。

         つづく

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ここまでは一見すると

戦後のよくある兄妹の小競り合いを、妹がうっぷん晴らしの文にストレスを吐き出していると思うでしょう?!

意に反して、私がお伝えしたいのは

昭和10年前後の、戦争が起き始めた富国強兵の国策によって育てられた男たちの

いびつな価値観の洗脳まがいの刷り込み教育で

本来の、小心で、神経質で、物理か何かの研究室で事故と格闘するタイプの兄が

家族と居候と、従業員の家族の生計を、維持しなければならないという

若者のビジョンと引き換えに

相続した東京の240坪の開業設備が

あいつは、、、親の財産を独り占めにして、

弟妹や親を面倒見た観たというけれど、、、

武器をごっそり引き継いでの大名開業だから、、、

やって当たり前だ!、、という世界を背負って生きなければならないという

医学部を卒業したばかりの医師と、

民間の理解のない物質の数字との解釈の間で、

もともとは、物理学者がお似合いの

狭くて深くてシャープな、ナイーブで臆病で神経質で、

何の分野でも、自分が主役でないと生きられない学者気質が、

東大に不合格と同時に

廻りに役に立つ人になって、

金が無ければ首が無いのと同じという

日進月歩の医学の世界で

臨床部門のエースの私立医科大学に進学したのですから、

お金が在るものが腕お磨けるという、経験の世界に突入したのですから、

親父さんとの開業と違って、

恐怖の一人開業を

未熟という恐怖と闘いながら

開業の跡取りを受けて立ったのですから、、、

父の友人の力に頼り、

医師会の心ある先生のサポートに頼り

一人開業のつらさを身にし見込むまで、体験したという

兄が主役の思い出話です。

兄は近付くと、、、、
妹にとっては殺生石のような光線に
希望を木っ端みじんに打ち砕かれますので、
遠方から兄弟愛ともいえるのかどうか。。。

存在を感じさせないで見守るしかない人でした。

理解できてるつもりで、理解できないのが、

三島由紀夫さんや、華厳の滝の上の東大生や、

                        つづく

戦後の東京大学は
現在の韓国の学歴社会のような

学歴社会の名門として、
東大に入学することが、、、金メダルのような時代だったのかもしれません。

戦後の日本復活のパワーは、

果たして、学問への目覚めだったのだろうか?

オリンピックに参加することの意義の大きさを
インタナショナルな功績として
受け止めることができますが

金メダルはそこから先は個人の問題にもなってくると思うのです。

しかし、わずかの差で
「オリンピックに出られなかったアスリートのことを考えてしまいます。」

日にちやコンディッションが違っていれば

。。。。。出来たのではないか?

。。。。。イイヤ!やっぱり自分にはあれが限界だ、、、

。。。。。自分にもっと家庭的にもゆとりがあったなら

いろいろと、自問自答しながらも、あきらめることがむつかしいのではないか?

人生の目的を絞り込んで、
その目的だけに生きることの
心のバランスのとり方が

組織的な配慮は要らないのだろうか?

東大を落ちたって、現在は選択肢がいっぱいあります。

しかし、昭和10年前後の戦前の育児様式が

富国強兵政策ですから、

為せば成る!

為せぬは,為さぬなり!と、、、ピンたが飛んでくる時代に育っていました。

一握りのインテリがいても、

日本にはクラシックの譜面さえない時代ですから

東京大学の問題自体が「難解であることが優秀な生徒を選ぶことにつながる」

数学だって、チャート式や岩切がスラスラと回答を導けて
大学への数学を解くことが合格への道だとか、、、

むちゃくちゃに偏った人間になりながら、

それでも不合格、、、、。


重症なのは、選抜されなかった時の変わり身ができなかったようである。

目的をなくしてしまうのであるから、、、

すべてに苦虫をかみつぶしたような、

劣等感だけが心の主になって鎮座してゆくのでした。

                           続く

昭和10年前後の時代は
明治の時代を走り切った親がザンギリ頭をたたいても
理解できない激動の時代を生きた親が白髪となり

明治20年代に生まれて、毎年新しくなる時代の激動期に育った子供が
「この日本をなんとかせねば、、、鎖国が長すぎた!。」
気が付くものは海外へ目を向け始めた
明治の終わりには西海岸にも
ハワイにも
日本人が移住しているから、、、すごい。
大正時代昭和を生きた者たちが誕生している。
鹿鳴館、モダンガール、ハイカラさん、自転車とブーツ
私の母のアルバムは兄が持っていたが、

東京大学をあきらめてからは
絶対の位置に居た母を客観的に見えるようになった兄は
「昭和10年の頃、父が静岡の病院に勤務していて
シュロの樹のある庭で、遊んだあの頃は、
「お前たちがうまれるまえのことだ。
父母は自分だけが宝物のようにかわいがってくれた。
この写真は、自分だけが知っている父母だから、
預かる。」

それ以来、私は父母のアルバムを観ていないが
母はつばの広い帽子をかぶり
大学の友人と、海岸で水着で笑っている写真は貴重な写真だと思った。

平成時代の過行くころ、兄は、兄弟に突然の封書を送ってきた。
    内容の要約を述べることで
    当時の長男と、母親の人間の絆が
    家を守るというような、文化である事が解る。
親にとってみれば、
長男が、老後を支えるのが文化として当たり前であったようですね。

ただし、、、我が家の場合ですが、、、ね。
母が50代で未亡人になって以来、
開業の時代が過行く手話38年頃の激動の復活日本の中で、
父のぬくもりの残る母屋を守ってくれてありがとう、、、というような
母が亡くなる前に兄に宛てた手紙のコピーだった。



きものを脱いで洋服へと、
女性の意識改革が目覚ましい時代に
明治生まれの母は
国立音楽大学の第一期生として
ピアノに魂を翻弄された時代であったようですね。


兄の持っていたアルバムには
山本直純さんのお母さんと同室の大学時代を過ごしている写真が
かなりありました。

国立音楽大学の文化祭なのでしょうか?

丸髷や、かの子姿の同室の母と彼女の
大学祭らしい舞台の発表劇なのでしょうか?

シーンは、江戸時代の物語のようです。
あの写真は長男に譲られましたが、

兄と姉の二人の世界に行ってしまった人生は
実家も売ってしまって、、、父母の者は
かっての居候の方々が、
持って行ってくれたものもあるはずですよね。

一人で開業の後を引き受けるほど
兄は心が強くなかった。

外科医を連れて帰るはずの私は
ミイラ取りがミイラになってしまった。

北海道に50年、、、、忠ならんとすれば考ならず、、、
田舎芝居の名場面を歌舞くわけではありませんが、、、

主人は、激動の戦前前後を

生きるか死ぬかの苦労の中で、
自分ファーストでなければ、医師をすることは出来ないと、

自分の仕事だけに絞り込んで、
50年過ぎた時には、

全てが過ぎ去っていたという
メビウスの輪の表と裏で、、、なぜか?
子供だけが育っていた。

医師をするという事の大変さを、
すれすれの近くて遠い位置から見てきましたが、

山崎豊子の「白い巨塔」に関しては

外側から見れば、、、その通りかもしれませんが

医学の中でも、外科医は微妙な位置に居ると思いました。

手術室で、、、亡くなる人もいれば、、
成功例ばかりではないことも周知のことです。

クレーマーによって生きている方もいる時代に

外科医の仕事は一人では出来ない。
しっかりしたピラミッドを技術の関係からも

出来上がってしまうのは、
外側から見ている外科医と
家庭内から見ている外科医ではかなりの差があるという

言葉にも、文にも書けない繊細な部分に
山崎豊子は気が付いていないと思いながら、

命を預けられる側の医師の立場智しては
治って当たり前、、、という

絶えず金メダルを志すアスリートのように
四方八方、研究しながら繊細で、臆病なときもあり

命という「金メダル」に向かって、
一人では出来ないチーム創りが

おもしろおかしく、、、飯の種として誇張して書かれているのが
TVに放映されると、

外科医の内面が、プロレスラーのように

観衆から面白いドラマになっているという、、、

医学も、医術もしらないで、
命の境目で、
メスを振るった経験のない山崎さんが
取材取材の、、、わかったつもりの医学を書くから

読者にとったら、、、
大きな意味での嘘を楽しめたのだと思います。
ともかく、、、
実家のピンチを助けるつもりの「仕事結婚は終わりました。」
実家は売られてしまったのですから。

弟が一番寂しいと思っています。

日本国民の一人として
団塊の世代の一人として
戦後の復活のテーマだった、、、追い付き追い越せ!

国立がんセンターで
日本の医療にはCTやMRIやPETという診断の宝刀のなかった時に

画像の性質が、、、素人においての美しい画像ではなくて、
医師が、診断に必要な画像が映し出されるアイテムにと
生涯の大きなテーマを、東芝の技師の皆と、

一心不乱に駆け抜けた医学の分野での戦後の復興を
みごとにやってのけた「団塊の世代の一人として」

個人的に、自分自身の家庭や親の事を振り返ると、

長男は、私物として、土地ごと売ってしまったという事が

知らされたのは、何年も経ってからだと思います。

「お姉ちゃん、、、僕は寂しい、、、
あそこには母が
今も笑って迎えてくれているのに
母の大切にしていた門の所の常緑樹の並木は
自動販売機の行列になっていた。」

「行ったかい?、、、実家が売られてから?」
「見に行っていない。その方が、、、いつまでも実家があるから。」

「一度、見に行こうよ、、、、僕が運転して連れてゆくから、、、」

「私は、弟と一緒に、弟の運転する車で、実家の門の前で

車を一分間、停車してもらいました。」

玄関までのアプローチの常緑樹は無くなって
無味乾燥した空気の流れる中に
自動販売機が両サイドにびっしりとおかれて、

玄関には入れないような
3メートルはありそうな
鉄の扉が、、、公園の時間外の入り口のように
がっちりと、私たち兄弟を
門前で跳ね返した。

「弟よ、、、」
「君は人生を、社会に貢献できたのだから、、、寂しがらないでほしい、」
「日本中に、実家があるくらい、、、北海道という遠いところでも
君の生きてることが、、、実家のぬくもりだったよ。」

里帰りも出来なかった。

子供を産んで育てただけの姉と
実家を維持するには、
精神的に疲れ果てた兄貴だったのかもしれない。

一人で、孤立して、
医師をするという孤独は
耐えがたきものが有ったかもしれないよね。

社会でインターナショナル的に受け入れられた弟が

我が、、、弟、、、という
姉が遠く離れた札幌郊外で、、、一人ほほえみながら

弟には、、、兄弟の誰もが出来なかった事を
ごくごく自然に出来たことは
戦後生まれた君に
両親にとって
戦後を生きる希望をもたらしたのだろうと思います。

父母にとって、

戦後を生きる力を君から受け取ったのかもしれないよ。
幼いころの両親は
君を可愛がっているあまり、、、

廻りの兄弟にはヤキモチを焼かすほどでしたよ。


君という、親の「第二の人生」の
出発への推進力だった君が
身近な存在であっただけに

自分も、かわいがられたかったのかもしれませんよ。
、、、
兄は根っこには優秀なヴィジョンがある人だけに

自分が個人的な域の中で
未亡人の母を守り切った時には
実家はきっと、、、
役目を終えたツールにしか見えなかったのではなかろうか?
日本の国策に近い医学の発展のメンバーに選ばれなかった運命が

実家を守って、個人開業することと
何ら変わらない、、、与えられた仕事だという割り切りが出来なくて

自分の価値観が、世間で脚光を浴びる仕事がしたいという
長男独特の、リーダーでいたかったのではなかろうか?

長男が実家を手放す気になったのが、、、解る様な気もします。
次男や三男、妹からは、
懐かしい我が家だった思い出を残してほしかったが
ITの発達した今日、
医師たちの時代は、設備された病院に
出向くだけの時代がやってくるという、未来に
維持費を考えると、
やがては維持できなくなるヨーロッパの古城のように

維持できる会社が維持してゆけば良いと
兄貴独特の、物理とエネルギーで、実家の重さを感じて、

自分がこの世を去るときは、
「0」という、、、有理数にしてゆこうと考えたのではなかろうか?

一見、、、主人も「自分ファースト」の権化になって
医師をすることだけに絞り込みをかけた人生でした。
人生を「喜劇」だと言った文豪が居たが、、、
医師という舞台俳優の
「主人公」を努めるアクターの
付き人が「家庭」も含んでしまうという事です。

妻はツールでしかありませんでした。
学問や、技術に執着する強さが医師になれたのでしょうね、、、
主人は、周りが優秀なので、必死になって全力で附いてゆきました。
運よく、、、博士論文がバイパス手術のない時代に
100頭近い犬を相棒に、
来る日も来る日も、
論文を書いていた。
「母には2-3年経ったら、実家の外科医として
東京に帰るからと、契約結婚に似た、付き合う事のない
条件結婚の契りを、母と契約して、
私は、薬剤師の職場を寿退職して札幌入りしたのが
札幌オリンピックの前後です。

結婚から5年間、、、博士号を取得したのが医師としての出発点でした。

当時、東京方面では知る人ぞ知るという三人男!の一人
東京女子医大の心臓外科の教授の
榊原先生の真っ赤な分厚い辞書に似た
「心臓」という著書に

主人の博士論文が引用されて、評価された文が有ったのです。

そのことがきっかけで、もう一度大学に戻るという
スタッフとして、次代の心臓外科医を育てるための
脇の固めをやってほしいと、

時の教授から、直接勧誘を受けました。

実家に帰る、、、東京に帰る約束の年が
ただでさえ3年も遅れているのに、、、

彼は、母校の大学に戻る方を選びました。
開業医に育って、大学まで卒業させてもらっていながら、
実家には、、、なんの役にも立たない

捕虜の生活同様の試練が始まりました。
もともとが東京の大学を卒業した私には、知人が居ません。

結婚生活にテーマを置いていない主人は
風呂のない二階建ての4軒の集合家屋の一角を借りていました。

一階から火事が出て、
母が主催していた「四つ葉会、ピアノ」の発表会の為に
母も、出演者も、気に入って頼んでいた
ステージのドレスを創るデザイナーが
結婚生活に必要な外出着を
銀座マギーで母と一緒に選んだ生地で縫ってくれたのですが

それも含めて、日舞の舞台衣装や、丸帯や、、
母が用意してくれた、物はことごとく焼けてしまいました。

「北海道は、、、部屋の中でストーブを焚くんだってね?!」
火災保険を30年分前払いで50万払って

くれていました。

結婚が10月、、、
家事になったのが、、、11月、、、だったかしらね???

まだ雪は降っていませんでした。

主人の祖母がご臨終で、取り急ぎ、私だけでも東京へと

飛行機で帰ったばかりでした。

主人は、出張で、夕張炭鉱の診療所に行っていたため、
九死に一生を得ました。

それからの人生は、、、すっかり居直ってしまいました。
「人生は登山中」だと!!!、、、
昼間の仕事着のまま寝ることにしました。

長い間、医師をするための費用だけしか働かないという
大学人の当時の「無給医の生活」に

実家は先行投資だからと、
何かにつけて、帰ってくる日を楽しみにしているからと

無償の応援を続けてくれました。

一年間の別居の体制で、私は恥を忍んで実家で長男を産みました。
3か月の間、母がいろいろと手伝ってくれましたが、
5月には札幌に帰ってきました。

家事に有った借間は新しく立て直されていましたが、
一階に移らせてもらい、

札幌での育児が始まりました。

主人には、
仕事しか目に入らない「無給医の生活」が
不思議だとは思わない、、、昭和40年代の北大の医師は
一握りを残して、皆、「無給医」だった時代です。

子供は熱を出していたも、、、
医師という病人の中に居る職業人は
「そう、、大変だね、、、頑張ってね、、、。」
はしかの時も、おたふくの時も、、、実験実験実験、、、。

無給の生活は、母が、未来の職員への前渡しだからね、、、と
家賃の5倍の生活費を送ってくれていました。

結婚前は、病院薬剤師として、
結構なお給料が出ていたので、
あと、、、数年は節約すれば、、、何とかなると思いながらも、

女性は結婚という、、、女性にしかできない出産を経由して

多くの事をあきらめて、孤独に強くなり
母が誕生してゆくのだなと思いつつ、、、

母親が誕生するまでの産道は
長く、暗く、死んでしまいそうなピンチに出会う一本道でした。

家の主人は、、、馬鹿なのか?

新婚だというのに、、、風呂のない部屋を借りる神経。

銭湯は広くて、気持ちは良いかもしれないが、、、

東京では、たぶん、、、医師たるものは、

奥さんを、銭湯暮らしは避けるのではなかろうか?

何処に、、、患者さんの目があるかもしれないのが、、、
医師という職業なのだから、、、。

ま、、、いいか!
ここは北海道、、、

私を知っている人も、
私に近づいてくる知人も居ない所であるからして
「いんでないかえ、、、と」

根性を入れなおして、、
医師として
一人前になってゆく道に進み始めている主人を
いかに放任して、、、、好き勝手にしておくかが
私の目下の仕事であった。

お互いに、、、そのうち必要を感じるときが来たら、、、

子供を産み、
子供を育て、
小さな借家で留守番よろしく
でたらめな時間に帰ってくる主人の為に
食事の支度をするという

子供を愛し、子供から、愛を学び
二人の愛が、子供を鎹に育てるつもりという

結婚も仕事の延長上の緊張感が続いたのでした。
                  

                  つづく

明日には、大幅に削除して、
余計なおしゃべりは短時間だけ、
君の為だけに、書いておくよ。











                                      つづく