枇杷の葉なし

枇杷の生育や、葉・花芽・種のことを日々の生活のなかで書いていく。

あたりまえのこと

2009年01月23日 | Weblog
 人間という生き物は、ほんとうに複雑で我儘。また、感情の浮き沈みのある動物か、と思うよ。誰かに何かをする、ってことは『ありがとう』を言ってもらいたくてすることなのか?

 他人から見れば、大変そうに見えても、本人はどうってことがない。と感じていることは多いように思うよ。いつもいつも手が必要な訳でなく、困っている時だけに、当たり前に貸してほしい。

 でもそれは、強制でもなく、自然に行なうことだって気づかない。お礼を言われないと、ひどく不機嫌になったりする。そのくせ、できないことをさせようと、頑張れ、って言うよ。

 当人の気持ちは絶対にわかるはずがない。あり得ないとも思うよ。励ますの?すごいね!って言うの?偉いって誉めてあげるの?

 心に添うことってのは、安易には出来ないよ。常に一定の距離を置いて、付かず離れずの状態で居れることは、なかなかどうしてできることではないのです。

 自分の体験があるから、といっても、その人のことではないし、似たようなことはあっても、同じではないもの。日本の社会は、健常者が中心であり、学歴や資格の蔓延するお役所頭が多い。

 自分中心の考えで満足してるよ。まあ、いちいち人の意見に左右されるのも困るが、生きている自分を、五体満足な体を感謝できなくて、人の命には携われないでしょう?

 自分の住んでる地球。生命が誕生するにあたっての、月の役割。太陽の恵み。あらゆることの全てに、神の意思を感じて、感謝することから始まるように思えるね。

 当たり前って、全てに対して、平等にあるものじゃない?障害を持っていようが、肌の色が違っていようが、生き物には違いないよ。あたりまえに生きる。なんて自然で本来の姿なのでしょう。

 だから誰かが困っていたら、その人のしてほしいことだけを、助けてあげれば、いっしょだってことがわかるよ。小さな事でも、ちょっと考えて工夫したり、手間暇を惜しまないことだよ。

 やれないとか、できないとかを言う前に、どうしたらできるかを、共にしてみることなんだって思う。人間であるばかりに難しい。けれども、できることでもあるんだよ。

 人間は、自分の足で立ち、手を使い、頭で考えて生きている。それって、当然、当たり前にあるからでしょう?人間の形が、手は片方だったり、目や耳の1つが当たり前であれば、違うのが異常になるね。

 神さまは、人間の試練に耐えられる範囲を与える、といわれるけど、ほんとうですね。挫けそうになりながらも、今日まで生きていることは、試練を越えて来たのだ。と感じています。

 それにしても、人間の内面はわかりにくいこと甚だしい。これもまた、当たり前のことですが・・・。

 昨年の我が家の、枇杷の実です。1回目には、5房ばかり採り、2回目には孫たちと、枇杷狩りをしたの。6月の下旬でしたが、1週間ばかり早すぎました。

 甘くてとてもおいしかったのですが、もう少し、木で熟すほうがよかったみたいです。大きさはチャボの卵大。花芽は自然落下にしているので、あまり大きくはなりません。

 種は、乾燥して、お茶にしました。
 
コメント
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