天気に誘われて起き、蒲団を干す。珈琲を挽いて淹れ、ゆっくりと新聞に眼を通す。休日の朝を、のんびりと堪能する。インスタントは買わないが、粉よりも自分で挽く方が旨い。至極尤もなことではあるが贅沢と、感謝をする。水は戴物であり、分けてくださることもあり難い。
今年の荒神さまでは会えなかったが、どんな方であろうとも、誠心誠意の姿は、通じあえるものだと感じる。何故?と聴かれても、応えることはできないし、説明には言葉がない。でも、その場に居合わせた者には、驚くべき真実がある。どういった事で起きるのかは不明であるが。
Aさんの場合にも、実に不可思議な事が続いて起こり、自分が余所者ながらも、其処に居たことの不思議さに驚く。自分の使命のような感じがして、手当てに没頭したが、言葉よりも何よりも、身体が動いてしまう。憑依というのがあるが、何かの力であったようにも思えるがどうか。
クリスマスローズの苗が、寒さからか萎れてしまい、水を遣っても元気に遠い。声をかけて、栄養剤を施す。見ると蕾が膨らんでおり、これから咲いてくれる。猫柳も咲き出し、梅は固い蕾をつけている。枇杷葉の苞が、花芽になってきたのもある。やはり春の気温かな?と見つめる。
何がどうということもないのに、気温の上昇や、二十四節気の移りには、それなりの理由があるんだと納得する。日本人は、旧暦の日月を疎んじているが、季節の移り変わりには欠かせない。少なくともわたくしには重要で、暦の活用とも併せて、手放せない物である。自然の力を知る。
庭の水遣りは、冬場には風呂の残り湯を、バケツに汲んで置いて遣り、夏には可能な限り、毎日遣るが、風の吹き具合や、外気温の関係で、土が乾くことにも依る。表面の状態に気を付けねばならない。
冬場の乾燥には十分な注意が必要で、雨のないのと風が土を乾かす。枇杷葉の下に置いていれば、寒さから守っていいかと置いていたが、空っ風が水分を飛ばせていた。苗に元気が無くなって気づく。
昨夜は、職場の若いのが治療に来る予定だったが、連絡があり中止になる。こちらにはどうということもないが、あの腕では業務も難しい。介護職の重労働を想い、良くなる可能性は遠いのを気の毒になる。
明日からは連勤で、休みが入っているが、身体の調子は、年齢と共に、直ぐには元に戻らない。自分で出来る手当ても限られてはいるが、枇杷葉に頼る力は大きい。勤務者にも依って違いが隔たるものです。
春分の日に前後して、西の宇宙に輝く金星。眩いばかりの光に、古来より人々を惹きつけた想いに。