枇杷の葉なし

枇杷の生育や、葉・花芽・種のことを日々の生活のなかで書いていく。

さよならの前に・・・

2019年08月10日 | Weblog

 人間は、誰しもが別れを知っている訳ではないが、胸騒ぎがどうにも止まらなく不安を掻き立てる。或いは、夢見で判ることもある。そのどちらにも、然したることはないように思えるが、予知夢と言うか、兆しと言うべきか、後日そうだったのかと想いに至る。まあ、殆どが気づかぬようだが。

 然し、だからと言って告げても、悪戯に動揺させるばかりで、手立てはない。また、悪用される恐れもあるので、知らぬ方がいいこともある。万全を期していても無駄なように、人間の思惑ほど厄介なものはない。せめて逝く者には、心安らかに眠りを与えたいのが心情であろう。言葉には霊が。

 最近、職場では不思議な事が起こっている。人間の土壇場での心構えが、苦境に立った時にはどうなるのかが、面白いほどに現れている。ある者からは、わたくしの言っていたことが、やっと解ったと話され、幾ら好意で注意していても、他人は身内ではないことにも気づく。奇跡は起こるのだ。

 信じることの大切さには、相手を全幅の信頼があるが、微塵も疑うことはできない。或いは、疑うことに因って信頼は崩れ、真実は虚実となる。枇杷葉に頼ろうとするならば、自分自身を信じることにも通じるので、治そうとする気持ちに、援けを呼び込み、疑わないで実行することだ。真実一路。

 それでも、誰でもに枇杷葉の力が効く訳でもない。相互の立場や、信頼関係が実証する。また気紛れに多少の副作用は出る。然し、毒を抜いているのであって、効果が出ていないのではない。諦めず、根気よく続けることと、信じることを止めぬこと。わたくしにはそれしか言えず、本人次第でも。

 病は気からと言い、それ故に病気と書く。くよくよしないこと、為すが儘に過すこと、或いは仲良くして身体を保つこと。何故なら、それだって自分の身体の一部だ。切って取れば哀しみが増す。治療方法もなく、為すすべもない病でも、悟って暮らせばいいように思える。慌てず騒がず生きていく。

 サルビアは花木店で買ったが、例年は、種が零れて発芽しないようにしている。まあ、四季の物として。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする