枇杷の葉なし

枇杷の生育や、葉・花芽・種のことを日々の生活のなかで書いていく。

親鸞聖人忌・神無月

2021年11月28日 | Weblog
 落ち込んでいる時に、元気を出せって言われるのって厭だなぁ。それができるくらいなら、その状態を回避できているし衝撃の度合いも感じないもの。自分を取り戻していく時間も膨大に要するので、簡単にはいかない。だからといって焦る必要もなくゆっくりとしかできないが、それがわたくしであるのも確かなこと。

 書き込みをしてくれての方、書けないけれど黙って支えてくれての人もある。でも正直な気持ち、これ程までに心配させていたと驚きを隠せない。どんなことにも自分自身での解決をして、誰かに頼ることもなく生きてきた。仮面を付け、まるで違う役者を演じてもいた。辛いとも哀しいのだとも感じぬ儘に愚かしく。

 相手の考えていることが判り、未来が視え聴こえる。もしかしたらあの方にも、微力ながら備わっているのだと思うことも屡々だった。心の結びつきは隠せないし拒めないこともあり、それらを枇杷葉で生かせればいいのだと信じても居た。誰かが幸せになって、歓びもうれしさも感じてくれればとの想いだけだったが。

 ここ数日、小椋佳さんのCDを最初から何度も聴いている。詩に籠められた言霊に妙に納得しつつ、その時の状況が鮮やかに浮かぶ。捉われるのか・惹かれるのかは定かでなく、心が安らぐのであればいいもの。書籍の題名に眼がいくのも、そういった感情の起伏に他ならない。直感を感情を信じる、それがわたくしだ。

 神さまは、願いはきいてはくれぬが与えてくれる。この世に自分の物はなく、その人に遭った贈り物をして下さるのだ。思い通りになるのではなく自然へと導き、己の過分を気づかせる。月に星に替わって言葉で伝えてくる。写真を観て、或いは人形に絵に魂を奪われる。誰しもに同じでなく異なりながら啓告を発する。

 狂っているのでも、変わっているとかでなくその人の個性なのです。それを認められない世界です。同じ考えであり右を向かねば排斥されます、それでも信じることを曲げねば死を覚悟するだけです。わたくしにはそういった方を見捨てることも、置き去りにも出来ません。どうか誰もが等しく救われますようにと祈る。

 もう少し時間が掛かりそうですが、充電を終えたら元のわたくしにかえります。与えて貰っている命を惜しみなくつかいましょう。それは同時にわたくしを援けて貰うことに繋がるので、心して生きましょう。あおい・青い・碧い色の中に浸かって、自分を癒してきましたから。皆さまの愛情に感謝して、ありがとうを。

 
コメント (12)
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