スイングもいいけれど、あたしゃやっぱり口から先に産まれた男。「朝めしを食いに、香住へ行きませう」という誘いに乗って、出版社勤務のサラリーマン珍太呂くんと、酒や酒や酒持ってこいの酒呑大人の三人で朝5時に大阪を出発。しかし日本海は遠いのなんの遠井吾郎。香住に着いた頃には朝のワイドショー枠は終わろうかという時間帯。香住高校の側にある民宿岡田の座敷にはもうズワイガニ一式が待ち構えていた。どっかで見た人が来たと思ったら、丹前姿のバー立山のマスター。御一行は昨夜から来て、どんちゃん騒ぎをした翌朝でどろんとした面持ちで朝食中。「こっちへ来て一杯どないでっか?」という呼びかけにも、いや、酒を見るのもちょっと…という感じ。ほたらば、頂きますか。まず茹でたせこ蟹から。うんうん、オレらガキの頃はなんぼでもオヤツに食えたものだが…なんち言いながら。この民宿の娘カニ子がセコ蟹の正しい食い方を伝授してくれる。さすが蟹から産まれたカニ子である。造りはズワイ脚、どろ海老、つぶ貝、タイ、サザエなど。ズワイのトロリは申し分ないが、その合いの手に頂くつぶやサザエのコリコリがアクセントとなって小気味よろしい。おっと酒を忘れちゃいけない。大人が持ち込んだのは福島の大七純米大吟醸「箕輪門」。そのまんまコップで頂いたが、丁度いい温度で香りも十分。さらりとしてでしゃばらない。程のいい酒だ。酒呑大人がガリガリ、バリバリ…飛ばすのでこちらもテンポアップ。若い珍太呂くんは公家の出なので、我々の施餓鬼のような姿に気圧されている。返す刀で焼きがにへ。実はこれが一番甘味が感じられる。殻の燻製のような香りも悪くない。ナマコも2種類生と茹でたのを出してくれた。ナマコは何にもない時にちっと摘まむにゃいいが、こうも贅沢な食卓では分が悪い。ポン酢の中で身を縮めておった。そしてカニしゃぶ。ぜいたくに豆腐だの野菜はほとんど入れない暴れ食いだい。え~い、グー(脚をちょん切った付け根のところ)は面倒だ、脚ばっかり行こう。何様だ、おかげ様。シメは雑炊。もう腹が天井を向いている。途中サービスエリアで買った「玉子かけごはん用の醤油」を試したくて、も一杯。くわぁ~当分カニいらん。近所の温泉にどぷんと浸かって、復路。珍太呂くんは仕事へ。アテはお好み焼き屋4軒の取材へ。酒呑大人は新地の料亭へと消えて行った。そこでも蟹が出た由。
ウェスタンスイングの北島のオヤジMilton Brownやア~ハ~の王様Bob Willsの話をする際に忘れちゃいけないのは、米国南部の音楽状況だ。
(この辺は見てきたようなウソをつくけど、三井徹氏の著作からの引用・孫引きをお許し願いまする)南部という所は人種差別のきつい土地だったが、(オレは1976年に南部のオッサンにJAPと罵られたぜぇ)こと音楽についてはいささか柔軟だった。遡ればフォスターの音楽やクリスティのミンストレイルズショーで顔に墨を塗って黒人の生活習慣を歌ったが如く、黒人たちがアフリカから持ち込んだ音楽にゃ興味深々だった。彼らの持つメロディやリズムにゃスゲェ新鮮なものがあったんだな。20世紀初頭、Al JolsonやGeorge Garshwinが黒人ミュージシャンとの交流の中でインスパイヤーされ、自分たちの音楽に生かしたように、後にJazzと呼ばれる音楽の下地がそこにはあった。聞いたこともないBluesを一緒に綿摘んでる時に、労働歌として聴いたりしてみな、そりゃシビレるわな。Bob Willsはそうだった。
だけじゃない帝人、英国移民がフィドル音楽を、フランス系移民がケイジャンを、ドイツやポーランド移民がポルカやヨーデルを、国境を乗り越えてきたメキシコ人たちがスパニッシュソングを、八尾市民が河内音頭を…そういう音楽が沖縄風にいうとチャンプルーになっていた。韓国風にいうとスッカラでとことんピビンパをかましたように、南部にはそういう音楽的な下地があった。そこへもって…週末には巡回牧師がゴスペルやセイクレットソングを持ち込んだ。
それに1930年代まで南部の田舎にはMedisine Showというものが来たもんだ。日本にもあっただろ、富山の薬売り。紙風船もってきたろ。あれは富山と言いながら奈良から来ることが多かったそうだが、それ以前にはオイチニの薬売りってのがいた。日露戦争の軍服を着てラッパ吹いて売り歩いたものだ。(阪妻主演「無法松の一生」の前半を見よ)それと同様、メディスンショーも荷馬車でやってきて、楽器を弾いて人集めをして、薬の効能を大道で説いて薬を売った。ガマの油と大して違やしねぇ。町々へ流す道すがら、楽器の弾ける田舎の若造がいたら「一緒に行かねぇか」とスカウトした。田舎でくすぶってる若造たちゃあたまんねぇや。MiltonもBobも若き日、そうしたメディスンショーに加わったんだ。そう、あたしゃ、この目で見たんだから仕方がない。
(この辺は見てきたようなウソをつくけど、三井徹氏の著作からの引用・孫引きをお許し願いまする)南部という所は人種差別のきつい土地だったが、(オレは1976年に南部のオッサンにJAPと罵られたぜぇ)こと音楽についてはいささか柔軟だった。遡ればフォスターの音楽やクリスティのミンストレイルズショーで顔に墨を塗って黒人の生活習慣を歌ったが如く、黒人たちがアフリカから持ち込んだ音楽にゃ興味深々だった。彼らの持つメロディやリズムにゃスゲェ新鮮なものがあったんだな。20世紀初頭、Al JolsonやGeorge Garshwinが黒人ミュージシャンとの交流の中でインスパイヤーされ、自分たちの音楽に生かしたように、後にJazzと呼ばれる音楽の下地がそこにはあった。聞いたこともないBluesを一緒に綿摘んでる時に、労働歌として聴いたりしてみな、そりゃシビレるわな。Bob Willsはそうだった。
だけじゃない帝人、英国移民がフィドル音楽を、フランス系移民がケイジャンを、ドイツやポーランド移民がポルカやヨーデルを、国境を乗り越えてきたメキシコ人たちがスパニッシュソングを、八尾市民が河内音頭を…そういう音楽が沖縄風にいうとチャンプルーになっていた。韓国風にいうとスッカラでとことんピビンパをかましたように、南部にはそういう音楽的な下地があった。そこへもって…週末には巡回牧師がゴスペルやセイクレットソングを持ち込んだ。
それに1930年代まで南部の田舎にはMedisine Showというものが来たもんだ。日本にもあっただろ、富山の薬売り。紙風船もってきたろ。あれは富山と言いながら奈良から来ることが多かったそうだが、それ以前にはオイチニの薬売りってのがいた。日露戦争の軍服を着てラッパ吹いて売り歩いたものだ。(阪妻主演「無法松の一生」の前半を見よ)それと同様、メディスンショーも荷馬車でやってきて、楽器を弾いて人集めをして、薬の効能を大道で説いて薬を売った。ガマの油と大して違やしねぇ。町々へ流す道すがら、楽器の弾ける田舎の若造がいたら「一緒に行かねぇか」とスカウトした。田舎でくすぶってる若造たちゃあたまんねぇや。MiltonもBobも若き日、そうしたメディスンショーに加わったんだ。そう、あたしゃ、この目で見たんだから仕方がない。
新宿南口に長らく小便横丁があった。安い鯨カツ丼を出す大衆食堂があったり、鰻のヒレやキモを焼いて出すモツ焼き屋があったり、戦後の闇市の名残りを感じさせる迷宮であった。そちらは20年も前にとっとと姿を消したが、西のWater Streetは十三西口に生き残ってるぜい。 横丁の煙は焼肉屋から出されるそれで、中でも老舗の『請来軒』は一見、黒澤映画「天国と地獄」に出てくる店のようだが、隠し肉がいろいろあり、クラシタとかミスジなどは初めてここで食った。なるほど確かに旨い、がそれらを食うと高くついたのは言うまでもない。オシャレな焼肉屋がなんぼも増えた今、収支はいかに。 『珍寿』はコース系串かつのパイオニア「五味八珍」「知留久」の両店で修行をし、店長として教えた弟子は数知れずという東條さん夫婦でもてなす小さな店。串かつは芸術です、と言う二人は今もベレー帽をかぶる。丁寧な仕込みを頂く店。 バー『十三トリス』はともすれば酒だけを静かに傾けるストイックなバーが多い中、食い気旺盛な大阪の客も楽しめるバーだ。いか焼きで呑ませるバーは大阪広しといえどここぐらいだろう。親爺がチック症で時折豪快にブルブルやっているのもここの特徴だろう。ないと寂しい。角ハイが美味い。ション横を抜けた辺りにある『下町ホルモンまるたけ』昨日行ったこれがなかなかいがったぁ。メインはテッチャン&肺のホルモン鉄板焼きと煮込み。ドッと一味をかけて、強めの焼酎をかっくらえば気分はオラオラオラ…確かに菜っぱ服着た下町の職工になった気分だ。梅酒に力を入れている辺りも面白いし、何より店主の武ちゃんが「どうだ!美味いやろ!」という態度でお客に向かってくる。そこが小気味いい。食べもん屋はこうでなきゃ。 手前にフェイク丸出しの新店「新○ホ○モン酒場」というのを見るだろう。あのアナクロニズムはもうお腹一杯。一周まわって古くなってもうた。しかも、店員たちにそれらの昭和30年代映画や戦前歌謡に何の興味もないのがいけない。単なる壁紙の一つ、記号でしかない。第一、出してくるホルモン串に力がないのはどういう訳だ。一言で言うと無気力。「食うてくれ!いっぺん試してみてくれ!でないと、今月家賃払われへんねん」という生活かかってる気がしないのだ。底の浅い看板はすぐに化けの皮が剥がれてしまうだろう。あとはどれだけ主人が「これオモロイやろ~美味いやろ~」と本気で思えるかどうかだ。 十三ション横。阪急京都・宝塚・神戸を結ぶ静脈瘤みたいな街。時おり闇市的な香りが通り過ぎる。
Western Swing!
その源流をたどる時、Bob WillsとMilton Brownという二つの才能は避けては通れない。BobがKingなら、MiltonはDaddyと言われる。比較するとMilton Brownの方がぜんぜん上!という評論も多いらしい。いずれも米国テキサス州の片田舎、プア・ホワイトの農家の子倅として生まれた。それぞれの音楽的なバックボーンは別の機会に書くとするが、今から76年前の1930年に出会い意気投合、1931年にLight Crustという粉屋をスポンサーにしたLight Crust Doughboysを結成する。無理やり和訳すると『サクサク生地野郎』。写真のような車で移動しながら演奏して客寄せをして宣伝した、いづもや少年音楽隊みたいなもんだった。(昔は鰻屋が楽団を持っていた、服部良一はここにいた!)真ん中がBob、その右がMilton。
Willsがテンガロンハットを被って西部劇スタイルで売る前、Western Swingとはちょいと都会的なシャレたものだった。Willsはフィドル(バイオリン)、MiltonはボーカルでWillsより洗練されたセンスの持ち主だったといえる。ごく僅かな時期を共に演奏、やがてはMirton Brown & His Musical Brownies、Bob Wills & His Texas Playboys として分岐して行く。
Miltonは1936年に33歳で車の衝突事故で亡くなっている。ウェスタンスイング界の赤木圭一郎だな。彼が長生きしていたなら、この音楽はまた変わったものになっていただろう。おそらく。
その源流をたどる時、Bob WillsとMilton Brownという二つの才能は避けては通れない。BobがKingなら、MiltonはDaddyと言われる。比較するとMilton Brownの方がぜんぜん上!という評論も多いらしい。いずれも米国テキサス州の片田舎、プア・ホワイトの農家の子倅として生まれた。それぞれの音楽的なバックボーンは別の機会に書くとするが、今から76年前の1930年に出会い意気投合、1931年にLight Crustという粉屋をスポンサーにしたLight Crust Doughboysを結成する。無理やり和訳すると『サクサク生地野郎』。写真のような車で移動しながら演奏して客寄せをして宣伝した、いづもや少年音楽隊みたいなもんだった。(昔は鰻屋が楽団を持っていた、服部良一はここにいた!)真ん中がBob、その右がMilton。
Willsがテンガロンハットを被って西部劇スタイルで売る前、Western Swingとはちょいと都会的なシャレたものだった。Willsはフィドル(バイオリン)、MiltonはボーカルでWillsより洗練されたセンスの持ち主だったといえる。ごく僅かな時期を共に演奏、やがてはMirton Brown & His Musical Brownies、Bob Wills & His Texas Playboys として分岐して行く。
Miltonは1936年に33歳で車の衝突事故で亡くなっている。ウェスタンスイング界の赤木圭一郎だな。彼が長生きしていたなら、この音楽はまた変わったものになっていただろう。おそらく。
2月最終日だというのに、冷たい雨の降る大阪北部だった。
身も心も冷え切ったような晩には、やっぱり日本酒。しかも熱燗でなきゃいけない。「熱燗は匂いがダメなのよね~」だと?黙らっしゃい!その小さな峠を越えたところに酒の妙味はある。越えなはれ。ぬる燗とか日なた燗の方が酒の味が分かるというが寒い晩は熱燗が絶対である。ああ、少々アルコールが飛んじまったって構うこたぁない。四の五の言わぬ。大体昔のオヤジたちは菊正といったら菊正、剣菱といったら剣菱、ごじゃごじゃ論を披瀝などしない。黙って呑んだもんだ。潔い。
熱燗ときたら、さぁ食べるもんは何を所望するかね。俺ぁおでんと行きたい。しかも、ここは関西風に関東煮と行きたい。あァややこし…。
少々おでんの説明を加えよう。おでんとは、元々宮中の女房ことばで田楽のことをそう呼んだ。芋をおさつ、尻をおいどと呼んだが如し。そもそも田楽たぁ、豆腐に木の芽味噌を塗って炙ったものだ。昔はこういう物で一杯やったんだろう。八坂神社の南門脇にある『中村楼』ではまだ軒先でこういう豆腐田楽を祇園豆腐という名で昔ながらのスタイルで売っている。それが江戸へ伝わり、職人相手にそんな悠長なことしてられっかい、ということで味噌の中に豆腐や蒟蒻、大根だのをぶち込んでグツグツ煮込んだ。こいつが味噌おでん。これは名古屋に行けば八丁味噌で煮込んだ『つる軒』などで味わえる。最後にメシと共に食うゆで卵なんてぇのは旨いもんだ。
江戸も文化文政の頃には醤油が関東で作られ、味噌に変わって醤油が台頭、醤油ベースで煮込んだ煮込みおでんになったつう訳だ。
さて、おでん何処で食う?浅草『大黒』、銀座『お多幸』(名優殿山泰司の実家)、本郷『呑喜』、横浜『野毛おでん』は記念碑的店だから推薦しておくとして、さぁ大阪でどうするか。
今、閉めっ放しになってるが、道頓堀堺筋寄り浜側にある、織田作の夫婦善哉にもその名が見える『日本橋たこ梅』。鍵の字のカウンターのまん真ん中にアカのおでん鍋がはめ込んであり、ここに山盛の具が入り、グラグラ湯気を上げる。「おでんとは風呂のように小波状態、だしを煮立たせぬようにしなきゃいけねぇ、間違っても汁を濁らせちゃあいけないよ」なぁんて言うのとはまさに正反対。ボコボコ煮立つダシは濁ってるのもいいとこ。だけどこれがうめぇんだぁ。定番の大根はない。ひろうす、お餅、こんにゃく、里芋、青柳、牡蛎…ああ。9種類だかの調味料が使われる芥子の成分を当て合い、居丈高な木村栄子みたいなオバハンをおちょくりながら呑むのはいかにもミナミにいるなぁ…という気にさせた。高くてめったに頼めなかったさえずり…平天、ごぼ天などは道頓堀さの半製と聞いた。そのさの半ももうない。酒はなんだったか。錫半の酒器で入れた熱燗がまろやかでなんぼでも呑めた。たこ梅には何とかもう一度再開してもらいたい。大阪を忘れた道頓堀の最後の孤塁だったかも知れぬ。他の「たこ梅」「多幸梅」は親戚筋だかなんだかいうが、オレは行かない。安くないから「たこの甘露煮どうでっか?」などの誘いには乗らぬよう。
はたまた北区茶屋町に近い、かんさいだきの「常夜燈」はどうだ。戦後の混乱期、お初天神の闇市に来て食べ、「これは関東煮やない、関西煮や」と名付けたのが、かの森繁久弥。やっぱしボコボコだしを煮返す。何を食ってもいいが、おでん屋の味をみるには『大根』である。軟らかく出汁を吸った淀大根は口でスッと蕩ける。灘の泉正宗(昔、雪村いづみがCMソングを歌った)が追いかけて胃の腑を温める。たまんない。
もう一軒西成の飛田新地近くにある「三角屋」は赤井英和の命名。赤井、子供の頃からの行き付けだ。完璧に駄菓子屋の関東煮である。仕舞いの頃のすじなんてのはコッテリとして涙ものである。これをアテに猫の額ほどの店内で、麦酒を飲む気分はたまらんのである。矢でも鉄砲でも持ってきやがれという気にさせられる。おでんもいいけど、オレはやっぱ関東煮にこだわりたい。
身も心も冷え切ったような晩には、やっぱり日本酒。しかも熱燗でなきゃいけない。「熱燗は匂いがダメなのよね~」だと?黙らっしゃい!その小さな峠を越えたところに酒の妙味はある。越えなはれ。ぬる燗とか日なた燗の方が酒の味が分かるというが寒い晩は熱燗が絶対である。ああ、少々アルコールが飛んじまったって構うこたぁない。四の五の言わぬ。大体昔のオヤジたちは菊正といったら菊正、剣菱といったら剣菱、ごじゃごじゃ論を披瀝などしない。黙って呑んだもんだ。潔い。
熱燗ときたら、さぁ食べるもんは何を所望するかね。俺ぁおでんと行きたい。しかも、ここは関西風に関東煮と行きたい。あァややこし…。
少々おでんの説明を加えよう。おでんとは、元々宮中の女房ことばで田楽のことをそう呼んだ。芋をおさつ、尻をおいどと呼んだが如し。そもそも田楽たぁ、豆腐に木の芽味噌を塗って炙ったものだ。昔はこういう物で一杯やったんだろう。八坂神社の南門脇にある『中村楼』ではまだ軒先でこういう豆腐田楽を祇園豆腐という名で昔ながらのスタイルで売っている。それが江戸へ伝わり、職人相手にそんな悠長なことしてられっかい、ということで味噌の中に豆腐や蒟蒻、大根だのをぶち込んでグツグツ煮込んだ。こいつが味噌おでん。これは名古屋に行けば八丁味噌で煮込んだ『つる軒』などで味わえる。最後にメシと共に食うゆで卵なんてぇのは旨いもんだ。
江戸も文化文政の頃には醤油が関東で作られ、味噌に変わって醤油が台頭、醤油ベースで煮込んだ煮込みおでんになったつう訳だ。
さて、おでん何処で食う?浅草『大黒』、銀座『お多幸』(名優殿山泰司の実家)、本郷『呑喜』、横浜『野毛おでん』は記念碑的店だから推薦しておくとして、さぁ大阪でどうするか。
今、閉めっ放しになってるが、道頓堀堺筋寄り浜側にある、織田作の夫婦善哉にもその名が見える『日本橋たこ梅』。鍵の字のカウンターのまん真ん中にアカのおでん鍋がはめ込んであり、ここに山盛の具が入り、グラグラ湯気を上げる。「おでんとは風呂のように小波状態、だしを煮立たせぬようにしなきゃいけねぇ、間違っても汁を濁らせちゃあいけないよ」なぁんて言うのとはまさに正反対。ボコボコ煮立つダシは濁ってるのもいいとこ。だけどこれがうめぇんだぁ。定番の大根はない。ひろうす、お餅、こんにゃく、里芋、青柳、牡蛎…ああ。9種類だかの調味料が使われる芥子の成分を当て合い、居丈高な木村栄子みたいなオバハンをおちょくりながら呑むのはいかにもミナミにいるなぁ…という気にさせた。高くてめったに頼めなかったさえずり…平天、ごぼ天などは道頓堀さの半製と聞いた。そのさの半ももうない。酒はなんだったか。錫半の酒器で入れた熱燗がまろやかでなんぼでも呑めた。たこ梅には何とかもう一度再開してもらいたい。大阪を忘れた道頓堀の最後の孤塁だったかも知れぬ。他の「たこ梅」「多幸梅」は親戚筋だかなんだかいうが、オレは行かない。安くないから「たこの甘露煮どうでっか?」などの誘いには乗らぬよう。
はたまた北区茶屋町に近い、かんさいだきの「常夜燈」はどうだ。戦後の混乱期、お初天神の闇市に来て食べ、「これは関東煮やない、関西煮や」と名付けたのが、かの森繁久弥。やっぱしボコボコだしを煮返す。何を食ってもいいが、おでん屋の味をみるには『大根』である。軟らかく出汁を吸った淀大根は口でスッと蕩ける。灘の泉正宗(昔、雪村いづみがCMソングを歌った)が追いかけて胃の腑を温める。たまんない。
もう一軒西成の飛田新地近くにある「三角屋」は赤井英和の命名。赤井、子供の頃からの行き付けだ。完璧に駄菓子屋の関東煮である。仕舞いの頃のすじなんてのはコッテリとして涙ものである。これをアテに猫の額ほどの店内で、麦酒を飲む気分はたまらんのである。矢でも鉄砲でも持ってきやがれという気にさせられる。おでんもいいけど、オレはやっぱ関東煮にこだわりたい。