先日、バイエルン放送交響楽団が京都コンサートホールで、ヤンソンス指揮の「運命」を演奏した。私は「運命」が好きなので特になんとも思わなかったが、アーノンクールの問題意識はこういったことに疑問を呈することから始まる。今日の演奏会のプログラムにおいては、演奏曲目が限りなく少なくなってきている、はたしてこれでいいのだろうか、今日の音楽は力を失ってしまっている、人々の生活からかけ離れてしまっているのではないか、ということである。
「中世からフランス革命に至るまで、音楽は文化や人生の大黒柱の一つだった。音楽を理解することは一般教養に属していたのである。今日では音楽は、オペラや演奏会に行くことで虚しい夕べを飾り、…ラジオによって家庭での静寂の淋しさを追い払ったり活気づけたりするための、単なる装飾と化してしまっている。したがって今日われわれは、量的にはかつてよりはるかに多くの音楽を、それもまさにほとんど切れ目なしに所有していながら、音楽は人生にはほとんど何の意味ももたず、ちっぽけな装飾につぎないという、矛盾に満ちた状況が生じたのである。」
「音楽がもはや人生の中心に存在しなくなってから、すべてが変わった。装飾としての音楽は先ず第一にあらねばならない。…美しさというのは音楽の単なる一つの要素にすぎない、人々の暮らしには、醜い面や辛いところもあるが、それらから逃げようとうしているのが今日の音楽だ。
もう一度、モンティヴェルディやバッハ、モーツァルトの音楽をただ美しさを求めることから越えて、全体として理解することにより、それらの音楽がもつ力とメッセージに身をゆだねようではないか」と。
以下、成程と思った文章を、書き記しておくことにする。
《音組織と音程法》
「我々は、音程法のシステムを全ての人の基準とすることはできない、…われわれにとって純正なものは他の人にとっては間違いであるということもあるのである。…われわれは聴覚を多くの場合ピアノの平均律に即して訓練してきた。この調律法においては、十二の半音はすべて、厳密に等しい間隔で調律されている。…そこでもし耳にこのシステムをもったまま、別のシステムに従って音程づけられた音楽を聴くならば、それは間違って演奏されたような印象を受けることになる。」
…ピアノでク訓練された「絶対音感」は演奏家にとっては、障害になるということか。
《古楽器は是か非か》
「ベーム式フルートの響きの理想から見れば、オットテールのフルートは、さまざまな音が均質に響かないから悪い楽器であるし、一鍵式フルートの側から見れば、ベーム式フルートは全ての音が画一的に響くから悪い楽器であるともいえるのである。
楽器を選択する際に決定的な意味を持つ問題は、客観的なクオリティである。現代楽器で演奏するべきか、古楽器で演奏するべきか、という問題のほかに、そもそも楽器とは何か、ということも問われなばならない。
一時的な古楽器ブームの結果として、数多くの多少とも美しく仕上げられた六穴ないし八穴の木管が、たとえその響きが常に適切でなくても、などともてはやされて使用するようなことがあってはならない。われわれは常に、聴覚や趣味を審判官として、最良のものにのみ満足をすべきなのである。」
「モーツァルトにはモンティヴェルディと同様の原理が見受けられる。モーツァルトにとって重要だったのは常にドラマであり、対話であり、個々の言葉であり、衝突とその解決であり、雰囲気全体を象徴するポエジーではなかった。
モーツァルト以降の世代になると、対話的・言語的な要素はだんだんと音楽から失われていった。その理由はフランス革命およびそれの文化面に引き起こした変化にある。…聴き手はそれ以降もはや対話の相手ではなくなり、響きから刺激を受け陶酔する享受者へと変えられたのだった。私が、考えるに、革命前の音楽をわれわれがまったく理解できない理由はそこにあるのだ。」
「音楽は対話」だとの観点から、アーノンクールは、極論して、今日のクラッシク音楽の「衰退」の原因をフランス革命に求めている。果たして今日の私たちは、彼が言う様に「革命前の音楽を全く理解できない」のであろうか。18,19世紀の音楽に慣れ親しんできた一人として、17、16世紀あるいはそれ以前の音楽とどのように向かいあって行くべきなのであろうか。
かつて受験勉強で齧ったフランス革命の歴史に改めて興味が湧いてきた。
今日もアダージョの森は静かな夕暮れを迎えた。