フルートおじさんの八ヶ岳日記

美しい雑木林の四季、人々との交流、いびつなフルートの音

小川洋子と佐野洋子

2011-12-16 | 濫読

今日は、寒そうな冬空だ。外気温マイナス5度、室温12度、湿度21%。細かい雪が舞い落ちてきて、時折強い風が横殴りに吹いている。


そんな中、よりによって畑にでる。畑の大根を収穫しておこう。今年は、種を播くのが遅れたため、あまり多きくならなかった。やはり8月の最後の週には大根の種まきを終えておかねばならない。ブロッコリーは立派に育っていた。ニンジンも収穫しておこう。細い大根は、収穫せずに凍結を防ぐため土寄せをしておく。

午後から、清里のもう一人のフルート仲間Yさん宅へ行く。いつも通り、可愛いキャンディちゃんの大歓迎を受けた。道に見慣れない大きなトラックが通ったら怪しいと大声で吠えるのだ。

ココアパウダーを振りかけたカプチーノ温かく美味しかった。しばらくウエスティやフルートの話をしてお別れする。

その後、地元のAさん宅を訪れる。農業法人を主催されていて、農業用機械が増えてきた。それを収納する大きな倉庫を仲間の人とご一緒に建設中で、丁度休憩の時間になったので、一緒にお茶を飲もうと座敷に案内される。炬燵に入って、奥さんにおでんを出していただき、清里界隈の話をお聞かせいただいた。

Aさん宅を辞してアダージョの森に帰ると、早速、夕食の準備に取り掛かる。冷え込む今夜は、すき焼きにすることにした。

図書館から借りてきた小川洋子と佐野洋子、二人の本を読み終えた。

小川洋子「やさしい訴え」、映画のような小説だった。山の別荘地で初夏から翌年の春まで、季節の移ろいとともに物語が展開していく。二人の女性と一人の中年男性の織りなす爽やかな恋愛。ふとことしたことで近づき、自然に別れる。絶えず優雅で美しいチェンバロが鳴り響いている。

「僕たちの方が君を求めたんだ」「何のために」「人を求めるのに理由は入らない」。

フランスのバロック作曲家ジャン・フィリップ・ラモー(1683年~1764年)が作曲した「やさしい訴え」という曲の題名が本の題名になっている。過去のある3人の男女が、それぞれ「やさしい訴え」をしているとも思えるが、それはこじつけかな。最近は、こんな恋愛小説を読まなくなって久しい。たまには、こんな本も読まねば、心がカサカサに乾燥してしまう。

ラモーの「やさしい訴え」は、私は聴いたことのない曲だが、青柳いずみこのCDを一度聞いてみたいと思った。

佐野洋子「シズコさん」、読み始めは少し、ずっこけたような感じだったので、どうかなと思ったが。読み終わると、何とも言えない哀しみがやってきた。赤裸々で凄い迫力だ。老人ホームに入所した母が少しずつ呆けていくのと同時並行して、佐野洋子の子供のころからの人生が語られる。満州から5人の子供を連れ帰ってきた佐野洋子の母親「シズコ」さん、何故か長女佐野洋子とはそりが合わない。7人の子供を産み、大人まで育ったのは4人。
「シズコ」さんが42歳のとき父が死に、主婦だった「シズコ」さんは地方公務員になって、4人の子供を大学まで通わせた。お洒落で、料理と裁縫が上手く、人づきあいがいい。始終夫婦げんかしていたが、「シズコ」さんは夫を深く尊敬し、父は「シズコ」さんや家族を愛していた。東大卒の父佐野利一は、満鉄調査部で行っていた中国農村慣行調査というフィールドワークが、死ぬ数年前に出版され、朝日文化賞を受ける。

「4歳ぐらいの時、母が私の手をふりはらったときから、私は母の手にさわった事がなかった」。老人ホームに入った「シズコ」さんの呆けが進むに従って「シズコ」さんの手や身体に触れることができるようになった。佐野洋子自身がガンに侵され車いすの生活を余儀なくされる。記憶もはっきりしなくなり、「シズコ」さんが93歳で死んだ時のことすら思い出せないようになるのだ。

夜寝るときシズコさんが小さな子供三人を連れて佐野洋子の足もとに現れる。最後に「静かで懐かしいそちら側に、私も行く。ありがとう、すぐ行くからね」と語る。

2年の後、2010年11月佐野洋子は72歳で亡くなった。


病院は読書に最適

2011-11-18 | 濫読

今日から天気が下り坂だ。朝のうちから、雲が多く、いつ雨が降り出してもよさそうな天気だ。
こんな時は、病院へ行くのに越したことはない。と言ってもどこかが痛いというのではないが、尿酸値が高いのが気になる。6月に検査をして以降ご無沙汰しているので、その後どうなっているか調べておくことにする。

8時30分からの受付、9時診療開始なので、9時前に病院へ入った。各診療科の待合所は、既に患者さんで満員だ。この病院は、基本的には予約制になっている。前回来院したとき次いつ来院するか、予約しておく方式だ。

私は、予約していないので、どうなるかな。まぁ、待ち時間がありそうなので本を読む。先日から再読している吉田秀和著「名曲300選」だ。音楽評論家吉田秀和が、西洋音楽の歴史をひも解き、古今の名曲を300曲選んだという本だ。吉田秀和自身は「音楽の歴史とまでは私の力ではとてもゆかないに決まっているが<名曲>の歴史なら、少しは何とかなるかもしれない」として、選び出した曲だ。

300曲の最初に1曲は何かと思っていると、それは「宇宙の音楽」だった。第2曲目は「グレゴリウス聖歌」である。6世紀の終わりの法王グレゴリウス1世が集大成したというものだ。

それから長い歴史を経てイタリアとフランスのバロック時代となる。それ以降は、まさに具体的な名曲解説だ。今日は、バッハ・ヘンデルからベートーヴェンまで読む進むことができた。

ベルリオーズがグルックの「オルフェーオとエウリディーチェ」のフルートについて、次のように言っているのが、印象的だった。

「フルートの淡い色彩の用い方を知っていた大家は、一人しかいない。グルックである。彼の旋律は、地上の生活の熱情を捨てきれぬ永遠の哀しみの不安なもがきを、余すところなくフルートに奏させている。最初はもれ聞こえるのを恐れてでもいるかのようにほとんど聞き取れぬ声ではじまるが、間もなく物静かな嘆きにかわり、とがめるような調子になり、ついで深い苦悩、癒すことのできない傷に引き裂かれた心の叫びになり、やがて哀訴、悔いあきらめた魂の哀しいつぶやきへと静まってゆく。何たる詩人だろう…」

待合所で待つこと2時間で、ようやく採血の順が回ってきた。採血してから、更に1時間待って、いよいよドクターの診断だ。「尿酸値が、また上がっていますね」とし、尿酸値を下げる薬を処方していただいた。この時間5分もかからなかった。他に異常なところは、総コレステロールがやや高いことか。結構お酒を飲んでいるものの、肝臓関係の数値はいたって正常なのも、なんとなく変な気分だ。

それ以降も、治療費を支払い、薬の処方箋を貰い、それを持って隣の薬屋さんに行った。薬を買って全て終わったのは3時間30分後だった。予約をしていないと、いくら早く行っても後に回されてしまう。これなら、受付終了時点で駆け込むのが一番上手いやり方であろう。

弱い雨が降り出した午後からは、フルートの練習をする。プログラムは、昨日と全く同じだ。今日も、力がよく抜けて、吹いていて気持ちが良かった。「ベスト100」の曲は、それほど難しくはないが、本番で音を外したり、テンポを乱したりすることのないよう、これから、どんどん吹きこんでいかねばならない。


辻邦生「風雅集」を読む

2011-08-04 | 濫読

今日は、暑くなった。といっても、空気が乾いて、澄んでいる。清々しい暑さともいえる日だ。
それならば、お盆に入ると混雑するので、少し早いが墓参りいくことにしよう。

こんな暑い日の日中の道は、さすがにすいている。暑い日差しをまともに受けて、お墓参りを済ませた。両親やその兄弟は、みんないなくなってしまった。一緒に暮らした、小学生の夏休みの光景が頭をかすめる。思えば、自分も遠くへ来たものだ。

その後、夕ご飯を一緒に食べようとおばあちゃんの家へ行く。「痩せはったの違います」「よう焼けてますね」、おばあちゃんのいうことは、いつも一緒だ。つい5日前に会ったことは、忘れてしまっているようだ。夕食までに時間があるので、おばあちゃんの家で、フルートを1時間少し練習した。おばあちゃんは、この夏の暑さにもまいらず、至って元気だ。食欲も十分で、明るく、よく食べるのでこちらも驚いてしまった。

夜は、辻邦生「風雅集」を読み終える。表題のとおり何とも風雅なエッセイ・評論集である。万葉集の東歌から始まり、平安の女流作家を論じ西行、芭蕉、蕪村。さらに俵屋宗達、本阿弥光悦、尾形光琳で「美」を論じている。やきものでは常滑、瀬戸、美濃を訪ねて、織部や志野が味わっている。

辻邦生のテーマは「美と現実、あるいは現実と精神、その二つの対立の中で、いかにして美が単に現実からの逃避ではなく、むしろ生活者たちにとって生きていく意味をささえるものかを探求してみること」であると語っている。芸術に実際的な力があるからこそ、秀吉が千利休を自刃に追い込んだのである。

文学の世界では、漱石の「文学論」が面白い。文学とは何かと、ロンドンで一人で悩んでいた漱石は、文学=F+fという公式に考えをまとめることにより、その悩みを解決した。Fとは焦点的印象または観念、fはこれに付着する情緒とのことである。

松本高校時代からの友人である北杜夫との交友録には心が温まる。辻邦生がフランスに留学する時、北杜夫が「いずれ、辻はどこかでのたれ死にするだろうから、ノートだけは克明につけて俺に残していけよ。書くことがなかったら物の値段だって何だっていいんだ」と言ったそうだ。彼に言われた通り、辻はパリでの生活を克明にノートに綴り、それを、「パリの手記」という形で出版した。「どんな幸運が私に与えられたか知らないが、少なくとも北杜夫と青春に会ったことだけは、私の生まれ星が幸運を指していることの証拠だといまも頑なに信じている」。
これだけのことを言える友人を持てるということだけでも幸せであろう。


「ローマ人の物語15巻 ローマ世界の終焉」を読了する

2011-06-15 | 濫読

今日も梅雨の晴れ間で、重い雲の隙間から、時折、日がさしている。

読み進めてきた「ローマ人の物語 第15巻 ローマ世界の終焉」を一気に読み終えた。感無量である。筆者が求めている「ローマ人が分かる」ということに、どれだけかなうことができたかは、はなはだ疑問であるが、「想いは共有」できたような気がする。

「ローマ人の物語」全15巻は、塩野七海が1992年から、1年に1冊ずつ書き進めてきて、2006年に完結した著作である。最初は1年に1冊なら同時進行で読めると思っていたものの、現実はそんなに簡単なものではなかった。途中何度か、中断があったが、何とか読みつなぐことができた。自分の人生の中でも、これだけの長い書物を読んだのは、これが初めてである。

紀元前753年に建国されたローマは、1229年後、紀元476年に滅亡した。西ローマ帝国滅亡後に、ゲルマンの東ゴート人が支配したイタリアを東ローマ帝国が再復する戦い=「ゴート戦役」があった。これを命じたのが「ローマ法大全」で有名なユスティアヌス大帝である。「ゴート戦役」は紀元536年から553年の17年間も続くことになる。東ローマ帝国はこの戦いに勝つために、北方の新興蛮族であるロンゴバルド族を雇い入れる。戦いの大義名分は、東ゴート族は同じキリスト教でありながら異端のアリウス派を信仰しているので、正当なカソリックが邪信を壊滅しなければならない、ことにあった。キリスト教は、とりわけカソリック派は、異教よりも同じキリスト教の異端の方を憎み、排除しようとする。最後はビザンチンが勝つものの、その後568年、雇い入れたロンゴバルド族がイタリアに侵略し、イタリアはロンゴバルドとビザンチン領に四分五裂する。ビザンチンは、「ゴート戦役」で疲れ果て、ペルシャやバルカン諸国から浸食されていく。

その後紀元613年にアラビア半島でマホメッドがイスラム教を布教し始めると、またたく間に、中東、北アフリカ、イベリア半島がイスラム圏となっていく。

塩野七海はこの膨大な著作の最後を次のように締めくくった。

「地中海は、もはや、ローマ人の呼んでいた(内海)ではなくなっていた。異なる宗教と異なる文明をへだてる、境界の海に変わったのである」
「ローマ世界は、地中海が『内海』でなくなったときに消滅したのである。地中海が、つなぐ道ではなく、へだてる境界に変わったときに、消え失せてしまったのである」
「だが、それも、紀元1千年を過ぎる頃となると、アマルフィ、ピサ、ジェノヴァ、ヴェネツィアという、東方のイスラム世界との交易に向かうイタリア海洋都市国家の船が行き交う海になっていく。
そして、その後ならば、古代復興と人間の復権を旗印にかかげた、ルネッサンス時代の海にもなっていくのである。
盛者は必衰だが、『諸行』も無常であるからであろう。
これが、歴史の理ならば、後世のわれわれも、襟を正してそれを見送るのが、人々の営々たる努力のつみ重ねでもある歴史への、礼儀ではないだろうかと思っている。

                                                                                               完」

「あとがき」

「この『ローマ人の物語』全15巻は、何よりもまず私自身が、ローマ人をわかりたいという想いで書いたのである。書き終えた今は心から、わかった、と言える。そして、読者もまた読み終えた後に『わかった』と思ってくれるとしたら、私にとってはこれ以上の喜びはない。なぜなら、書物とは、著者が書き、出版社が本にし、それを読者が読むことで初めて成り立つ媒体だが、この三者をつなぐ一本の赤い線が『想いを共有する』ことにあるのだから。

2006年・秋、ローマにて
塩野七海」


浅田次郎著「終わらざる夏」読了

2011-06-08 | 濫読

今日は、午前中晴れ間が広がった。今日も庭に出て、草抜きをする。これで、庭の草抜きはほぼ終わった。蒸し暑くなったとはいえ、まだ、それほど苦痛ではない。

午後は、読み進めてきた浅田次郎の「終わらざる夏」を読み了えた。上巻では、多くの人物が次々とめまぐるしく出てきくるので、余り話が進展しない。下巻から、英語の翻訳者片岡直哉、軍医の菊池忠彦、歴戦の勇士富永熊雄を軸に物語が進む。それぞれの、親、友達、妻、子ども達などを通して敗戦前の日本社会の状況を浮き彫りにしていく。そして最後の「終わらざる夏」の場面となる。

日本が無条件降伏した8月15日以降に、千島列島最北のシュムシュ島で、ソ連が戦端を開き、そこで、多くの兵士が死ぬ。そのことが、国と国との戦争の無意味さ、おぞましさ、をありありと付きつけることになる。夏なると厚い霧に覆われるシュムシュ島には、野の花が美しく咲き誇っているという。
ソ連兵であれ日本兵であれ、国家のシステムで、有無を言わさず動員された、普通の兵士たちが無惨に銃弾に倒れていく。日本軍の銃弾に倒れたコサックの兵士の夢幻の世界は、急に非現実的な場面になるが、心に残る。最終章の片岡の「とどかざる我が思ひ、なしとげざる我が務め…」の言葉が胸を打った。読んでいる間も、読了後も、心のなかにオリのように残るものの正体は何なんだろうか。

その後、フルートの練習をする。基礎練習、アルテ19課の3曲をたっぷりやった。指に力が入らないように気を付けていたのだが、何故か右手小指が異常に痛くなってきたので練習を止めることにする。どうもド♯を吹く時のフルートの支えが不安定で、内側にフルートが回転しようとするので、それを防ぐために、右手小指に力を入れているようだ。これはなんとしても改善しなければ、安定した音階が吹けないことになる。