フルートおじさんの八ヶ岳日記

美しい雑木林の四季、人々との交流、いびつなフルートの音

林望著「謹訳 源氏物語一」を読む

2012-03-07 | 濫読

 

イギリスもので楽しい本を読ませてくれる林望さんは、実は国文学者。長年研究していきた源氏物語を現代口語に訳した。本人は「謹訳」という言葉を次のように説明している。
「原典の持つ深く豊かな文学世界を、忠実謹直なる態度で解釈し味わい尽くして、作者の「言いたかったこと」を、その行間までも掬い取りたいという思いを込めたのである。それは、私の古典学者としての責任である。」

第1巻は「桐壷」「帚木」「空蝉」「夕顔」「若紫」までが収録されている。

思いだせば、高校生時代「霧壺」を初めて読んだとき、全く訳が分からなくて、受験勉強素材としか感じなかったが、少なくても、この「謹訳源氏物語」はそういうことはない。壇ふみが「いやはやとびきり面白い」と語っている通り、実に読みやすい。

ただ、平安時代というのは、こういう時代だったのかと改めて思うことしきりだ。若紫の帖に出てくる、紫の君はまだ字も読めない子供であり、義理の母親である藤壺が源氏との道ならぬ恋で懐妊する騒ぎが出てくるあたり、今日的な倫理観で迫ってもどうにもならないのだ。

大阪から清里に行くときに中央道恵那山トンネルを通過したところに園原というところがある。そこの月見堂に根元の幹のみが残っている「帚木」が生えている。「帚木」とは、遠くから見れば見えるのに近づくと消えてしまう、と言われている。

「帚木の心を知らでそのはらの みちにあやなく まどいぬるかな」との歌が出てくる。

「謹訳源氏物語」は、和歌の解説が分かりやすい。物語の話の展開より、和歌の方が何倍も面白い気がする。

林望さんのインタビューがある。
「本は娯楽です。勉強のために読むのではなく娯楽だと思ってほしい。誰もが読まなければいけない必読の書なんてものはなく、読みたければ読み、読みたくなければ読まない、それが読書の本来です。『謹訳 源氏物語』も娯楽として読んでほしいと思います。特に、声に出して読んでもらいたいですね。」

筆者がこう言っているのだから、第2巻も、肩肘張らずに楽しみながら読むことにしよう。
 


辻邦生著「背教者ユリアヌス」

2012-03-01 | 濫読

若いころ一度読んでみたいと思っていたまま読めなかった本がたくさんあるが、その一つが、辻邦生の「背教者ユリアヌス」だ。この本は、塩野七生の「ローマ人の物語」でも紹介されていた。

皇帝ユリアヌスが単にユリアヌスと呼ばれるのではなく、「背教者」と侮蔑的に呼ばれるのはキリスト教の立場からである。叔父のユスティニアヌスが「大帝」と呼ばれるのも、キリスト教から見ての尊称である。ユスティニアヌスが紀元337年に亡くなったとき、コンスタンチノープルの宮廷では、その子コンスタンティウスの異母兄弟が殺され、
当時6歳だったユリウスとその兄12歳のガルスだけが奇跡的に助かったことから物語が始まる。

生きながらえたとは言え、兄弟は直ぐに幽閉された。ユリアヌスが20歳になった時に幽閉されながらもアテネでのギリシャ・ローマ古典の研究生活が許される。兄ガルスが殺されたとき、ガリア地方の騒乱を抑えるために、突如「副帝」に命じられる。
人々は学究の徒にガリアはおされられないと軽侮していたが、驚くほどの努力で、騒乱を抑え込むのに成功した。
361年ユリアヌス29歳のときに、コンスタンティウスが死に、皇帝に指名される。そのとき行ったのが、ギリシャ・ローマ宗教への回帰である。313年にコンスタンティヌスが「ミラノ勅令」を発布して、キリスト教を公認した。皇帝権力の安定した継承を狙うコンスタンティヌスは、皇帝権力が「神から与えられた」もの、とするのが、支配する上で非常に都合が良かったからだ。

皇帝がキリスト教を崇拝すると、元老院や貴族等の支配階級は、全て「世の中の暮らし方」としてキリスト教を信仰するようになった。それから、キリスト教が権力によって広められる50年の歳月が流れ、社会にはすっかりキリスト教が定着した。それゆえ、ユリアヌスが、ギリシャ・ローマ宗教への回帰を訴えても、人々の共感をえることができなかった。ユリアヌスは皇帝になってからただちに、積年の課題である、東方ペルシャ戦役に出、363年、32歳の若さで戦いの中で命を落とす。

辻邦生は、ユリアヌスの「神像論」を次のように紹介している。
「太陽や微風が快いのは何故であろうか。それは太陽は微風を通じて神々の香しい息吹が送られているからである。それは我々に生命を送った息吹である。我々は太陽や風のなかで、われわれの生命の本源に迫るのである」
辻邦生の流れるようでいて、しかも綿密な文体に綴られた長編を読み終えると、しばし、ぼーとなって、遥か遠い4世紀のローマ時代のことを思った。


山々に霞みがかかる

2012-02-05 | 濫読

 今日も八ヶ岳はいい天気だ。外気温マイナス13度、室温9度、湿度12%。南アルプスも八ヶ岳もよく見える。ゆっくりと部屋を温め、コーヒーを淹れる。今朝はヘンデルフルートソナタを聴こう。ヘンデルは、あくまでも優雅で分かりやすくていい。

窓の外の雪景色を見ながらサンドイッチの朝食を食べる。


午前中は、フルート練習だ。基礎練習の後、アルテ第22課の短いトリルの練習曲を吹く。テンポをぐっと落とすと、なんとか最後まで吹くことができた。ついでに23課の反発トリルの練習曲も吹いた。こちらの方は、細かいトリルが連続するので簡単ではなかった。

昼からは、春のような日差しで、山々が霞がかかったようにぼやけている。ポカポカと22度まで上がった部屋で本を読む。

NHKが年明けからBSで放送した「開拓者たち」の北川恵の原作を読んだ。戦前の国家政策に翻弄されて、宮城県の貧農から「大陸の花嫁」として満蒙開拓団に参加した4人の兄弟の物語である。主人公ハツはまだ16際、結婚する男性は同じ宮城県出身の24歳の浅野速男。行き先は「満州」の「千振」(ちふり)。先に移住したハツに続いて金次、史郎、富枝の兄弟を呼び寄せる。平和な開拓生活は直ぐに終わり、ソ連の参戦、日本の敗戦、中国の国共内戦の渦に巻き込まれる。いつ終わるともしれない「逃避行」が続く。1946年夏、命からがら日本に帰国した。貧窮にあえぐ、ふるさとを後に、今度は栃木県の那須に国の用意した荒れ地の開拓村に行くことになる。そこで第2の開拓が始まった。千振の仲間が集まり、困窮にもめげずに開拓、酪農の新しい村づくりを元気にやり始めたところで物語は終わった。宮城県が出てくることにより、大震災の困苦に立ち向かっている人々の姿と重なった。歴史に翻弄されながら、明るく真剣に生き抜く人々の姿に引き込まれた。

読書に疲れたので、森の中を散歩する。周りの畑にはまだまだ雪が残っているが、森の中の日当たりのいいところは、大分雪が融けてきた。


その間、妻は、暖かい部屋で今日もパン作りをやっていた。

その後、今夜の夕食用に擬製豆腐を作り始めた。

他にちらし寿司。私は汁ものが欲しかったので、にゅう麵を用意した。


静寂の世界

2012-01-20 | 濫読

昨夜から降り出した雪は朝になっても降り続いていた。あたりは一面の雪景色。真っ白だ。15センチぐらいは積もっている。


外気温はマイナス5度、室温13度、湿度20%。雪が降るとかえって暖かいのが不思議だ。雪が全ての音を飲みこんでしまって、静寂の世界だ。薪ストーブの窓を磨き、薪を焚く。コーヒーをすすりながら、バッハのチェンバロ協奏曲をかけ、雪景色を眺める

朝食を食べる前に、ホウレンソウの「スムージー」を飲む。酵素が豊富で身体にいいそうだ。

午前中は、弱いながら雪が降り続いたので家の中で過ごした。薪ストーブをどんどん焚いていると、昼には部屋の温度は26度まで上がった。薪ストーブの暖房の威力は凄いものだ。

昼過ぎに、ほんの少しの間雪がやんだので、雪の庭に出てみる。

雪を踏むと「ギュッギュッ」と音がする。まっさらな雪の中を歩いていく。

その先の畑も、ただただ真っ白な雪が積もっている。

一時止んでいた雪が又降り始めたので、家に戻る。


夕刻まで、雪景色を見ながらフルート練習をした。練習メニューはいつもと同じだ。今日の夕食は、造り置いた串カツとコロッケの揚げ物。サラダをたっぷり食べよう。


津村節子「紅梅」を読む

2012-01-14 | 濫読

最近、親しくしていた人が癌で亡くなった。癌で夫が亡くなるというのは、どういうことなのか
考えてみようと思って、津村節子「紅梅」を読んだ。

この本は、夫吉村昭の最後を、妻の津村節子が小説風に仕立てたものだが、ほとんどが実録なのであろう。物語は、吉村昭が77歳の2005年の元旦、年賀状の束を解くところから始まっている。2月に入って舌の痛みをおぼえるようになり、精密検査をすると舌癌が判明。その後放射線治療を行う。舌を動かしては行けないので夫婦の会話は筆談で行われた。話の合間に、若いときに夫婦で、東北で行商を重ねた苦労話が出てくる。

放射線治療を行いつつも、舌の痛みに耐えながら2005年が過ぎ、2006年の年が明けた。夫の元旦の日記には、一行だけ「これが最後の日記になるかもしれない」と書いてあった。舌癌の切除手術を行おうとして、PET検査をしたら、今度は膵臓癌が判明。医者は「初期だ」との診断だったが手術をしてみると、癌は膵臓全体に広がっていて、全摘手術となった。

膵臓を全摘すると、インシュリンをコントロールが必要になる。喉が渇いて飴を舐めるだけて血糖値が異常に上がるという状況だ。看病する妻は毎日空腹時に血糖値を測り、インシュリンを調整していかねばならない。夫は「いい死に方はないかな」とつぶやくようになる。

5月1日、夫は79歳の誕生日を迎えた。吉祥寺でデコレーションケーキを買って、妻と息子、娘の4人でケーキを切った。これが最後の誕生祝いとなる。抗癌剤を飲むと吐き気がして、食べた物吐く、体重が減少していく、尿が出ない。些細なことで腹を立て妻に当たるようになるが、それを、娘に叱られると「そうか悪かった」と素直に謝った。息子と娘にいつもやさしくおだやかなのだ。

抗癌剤治療に代えて次は免疫治療法を始める。免疫を身体から取り出し、培養してから身体に戻して免疫力を高めるという治療法だ。抗癌剤を止めると食欲も出てきて、カツオのたたきや好物のカキフライ食べ、日本酒も少し飲むことができるようになる。

7月になると、夫が書いた4通の遺言を見せてもらう。葬儀は家族葬とし、誰にも知らさないこと。死後は一刻も早く遺体を火葬場に運び荼毘に付すこと、無宗教なので法事は一切なし、医療関係者には、「いかなる延命措置もなさらにでください」と書いた。

その後、腹部が異常にふくれ、便も尿も出にくくなってくる。病院から退院して自宅療養となる。夫は、妻の着るものにうるさく、常に身ぎれいにしていないと気に入らなかった。化粧をして夫の気に入りの花柄のワンピースを着て、妻は、夫のベッドの傍らで原稿のゲラなおしをする。「コーヒー」「ビール」というので、吸い呑みに入れて飲ませると「うまいなあ」という夫の満足そうな顔が嬉しかった。

その日も夕食後、ベッドの傍らに布団を敷き始めると、夫がいきなり点滴の管のつなぎ目をはずした。「何をするの」と叫ぶと、娘も、看護師も駆けつけてきたが長く病んでいる人とは思えぬ力で、激しく抵抗した。必死になっている看護師に妻は「もういいです」と涙声でいった。娘も泣きながら「お母さんもういいよね」と言った。息子も駆けつけ3人にみとられて、夫の呼吸が止まった。眼鏡を外した夫は、妻が大学の文芸部に入ったときの夫そのままの顔になった。
あれほど、苦しんだ病気から解放された夫は、穏やかな顔で眠っていた。

親しくしていた人の死は、この話とは、かなり違うのはもちろんだが、この物語に近い情景があったような気がする。
死を迎える前に、夫婦はもう一度今までの人生を振り返るのであろう。夫婦の出会い、若いころの苦労、楽しかったこと、つらかったことなど。苦しくつらい治療、妻や家族の必死の看病。最後に津村節子が、自己を責めるくだりがある。妻なのかもしくは小説家の同士なのか、余人には分からない。遅かれ早かれやってくる人生の締めくくり、これをどう迎えるべきなのか、考えさせられた。