日々のあれこれ

現在は仕事に関わること以外の日々の「あれこれ」を綴っております♪
ここ数年は 主に楽器演奏🎹🎻🎸と読書📚

久々の雨と体感温度

2021-10-16 17:30:49 | Weblog

 久々に会った業者さんに、

「やっと涼しくなりましたねぇ。明日から急に気温が下がるという予報が出ていますけど…」

というと、

「いやぁ~ 僕は寒いくらいが丁度よいですね。動き回るから、暑いのは苦手で💦」

「そりゃ、そうですよね。私も同じく!」

いやぁ…ね、いつも 「朝夕やっと涼しくなった」というと、「寒いっ!」と、ひとこと、という人もいたり、体感温度は人それぞれです。

私は暑いのが苦手で、寒いのは動けば身体が温まるので、夏よりずっとWelcomeなんです。

基礎体温が高め、というのもあるかもしれませんが。

只、一日に50回~100回と手を洗うので、夏は大丈夫でも、これからの季節、手荒れになりますが。

そろそろ保湿クリームがいるなぁ。 昨年冬に購入したものが、まだあるので、しばらくは大丈夫かな。

 ちなみに今の気温(室内)は23.5度。 昨日まで28度だったことを思えば、やっと! 遂に! 秋到来となるのか~

正直、ほっとしています。約半年間に渡る、長すぎる夏よ、さようなら~

 

 

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逆説の日本史 9⃣ 鉄砲伝来と倭寇の謎

2021-10-16 17:00:49 | 読書

 図書館には長期間に渡り、7⃣と8⃣がないため、2冊分を飛ばすことになりますが、先に9⃣を借りてきました。

 第一章には、琉球の歴史。中国の三国志のような時代が沖縄にもあったということ(南山 中山 北山)、その後、統一されたこと等、書かれてある。

 次に、副題にもなっている倭寇について、始まりは確かに日本の海賊だったが、その後、倭寇を占める割合は、朝鮮半島が主となり、16世紀になると、元の後の明の民が8割となり、もはや倭寇イコール日本人ではなくなっていたことが述べられていて、驚いた。 単純に倭寇は日本人の海賊だと何の疑いもなく信じていたので。学術的にも証明されていることであるにもかかわらず、(中国の歴史資料にも、そのように書かれてあるくらいなので)何故、今も中国では「倭寇は日本人ギャング」と自国民に「歴史の授業」で教えるかといえば、それは古代から現代まで変わらぬ中華思想があるから。

面白いな、と思ったのは、この倭寇と鉄砲伝来が思わぬところで繋がっていたこと。

 中国・朝鮮半島では、商業(貿易等でお金を儲ける)は卑しいことだという認識があり、(儒教の影響で)当時の明は、他国との貿易を禁止していた。禁止されてはいても、日本や琉球と貿易…といっても当時は相手が強ければ、取引が成立し、弱ければ海賊となり奪う、という輩が出てくる。 

 加えて当時は、ポルトガルが布教活動に熱心であり、マルコポーロの影響で、黄金の国、ジバンクのことも知ってはいた。最初は嵐にあって、偶然、流れ着いただろうが、翌年、明の海賊船でポルトガル人は再びやってきた~ 最初の鉄砲はこうして明の偽倭寇の手引きにより、種子島に伝わったが、ポルトガル人にとって、誤算だったのは、わずか1年でmade in Jepangの鉄砲が出来てしまったこと‼ 日本刀の技術力は確かなものだっただろうから。ちょうど、NHK大河ドラマ『麒麟がくる』で、斎藤道山の命を受けた明智光秀(まだ光秀ではないけれど)が、鉄砲を求めて京へ行く場面がある。器用な日本人なら、鉄砲を分解し、国産の鉄砲を作り出すことも出来ただろう。しかし、日本には火薬の元となる何だっけ?がない。火薬が無ければ、鉄砲も只の棒。そこで日本とポルトガルの間に商談成立~ もう一つ、ネジも伝わったが、何度、作り方を聞いても教えてくれなかったらしい。 まぁ、そうだろうな。

 琉球、明、倭寇(実は漢民族が殆ど)、ポルトガル、戦国時代の日本…複雑に絡み合って、鉄砲伝来と相成った,というわけか。 こんなこと、中学、高校と歴史授業で習わなかった。鉄砲が日本に伝わったのは、はい、何年? 1542年、(井沢さんによれば、諸説あります✋)といったことしか…

 

 後半は、武田信玄、上杉謙信、毛利元就、織田信長、といった戦国武将が登場。上杉謙信こそ『義』の人で、武田信玄は『風林火山』 山のように動かない武田信玄が唯一動いた時の激戦。(全部で5回、大戦しているらしいが、雪に閉ざされる地域なので、時間制限付きで睨みあいが殆ど)この時、大将同士の一騎打ちがあった、とか、なかった、とか。「なかった」「ある訳ない」「不可能だ」とうのが学説らしいが、井沢さんは、「あった可能性はある」とする。ちなみに小学校、5.6年生男子による運動会の出し物、「川中島の合戦」では、最初に歩兵たちが戦い(練習では帽子、本番ではハチマキの奪い合い)、最後に大将同士が戦う、(ハチマキを最初に奪った方が勝ち)というものだったので、子供の頃からのロマンとしては、「あった」と信じたい気が…

 

 「もし、武田信玄が、あと10年、長生きしたら、織田信長に勝ったか?」

少なくとも、天下を取ることは100%無い、というのが井沢さんの考えで、私も同意。武田信玄は、仏門に入ったくらいで寺が大事な人だった。また、首脳陣は身内で固め、真田昌幸親子たちは外様だから地位的にも下の方。

 当時は比叡山延暦寺など、寺の力が強大で、関所で通行料を徴収、経済を牛耳っていた。イタリアの歴史で有名な塩野七生さんも著書の中で述べていたが、ここにメスを入れたのが、他ならぬ織田信長。 関所を撤廃し、楽市楽座を始め、経済を活性化し、儲けを商人たちの手に戻した。比叡山延暦寺のお坊さんたちと対峙したのも、その延長線上にある。

 織田信長が選ぶ人材も秀吉、光秀など身内でなく実力主義の登用。首脳陣にも大抜擢する。 武田信玄に、比叡山延暦寺問題解決、身内以外の登用、こんなことが出来たか?といったら無理だっただろう、というのが理由。

 ただ、武田信玄が信玄公と地元で今も慕われるのは、山あり谷あり、雪深くて雪崩も治水も大変な土地で、土木構造物に力を入れた点。長野の皆様、そうなのでしょうか…きっと、そうですね。古代ローマの皇帝達もそうでした! 橋や下水道には、私財を使ったため、皇帝の名前が刻まれたそうなので。

 

 こうしてみると、つくづく織田信長という人は、日本の歴史上、異例中の異例。それまでの常識を覆し、「新しいこと」をどんどんやっていった人だったんだな。 小学生の頃は、織田信長というと、大河ドラマの影響で、「怖い人」「好きじゃない」というイメージだった。今は、令和に織田信長が出てきてくれないだろうか…と思ってしまう。

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